祖母の死

祖母が死んだ。
五月のある日、仕事から家に帰ると、玄関すぐにある応接間にベットを広げている叔母はうなだれていた。
「お母さんの様子がおかしい、反応もないし…。でも電話の充電も切れているし、連絡のしようがなかった。居間に入って見てきてほしい。」
リウマチで患っている両膝をさすりながら、私にこう言う叔母に俄かに憤りを覚えた。いくら状況が不利であっても何かしら行動は起こせたはずだった。彼女の携帯に登録されている身内のいずれかに電話を掛けてさえいれば、対応はきっと早かったはずだった。というか寧ろ介護家族として苦労していると周囲に豪語するのであれば、尚更、足が悪かろうと這ってでも祖母の元へ駆けつけるべきではないかと、私は今にも起こりそうな感情を抑えるべく、自然、奥歯を噛み締めた。
たまたまその場に居合わせていた私の父も同感であったろう。表情が苦り切っていた。しかしこのことで議論をしていても埒があかない、祖母が倒れているために一刻の猶予も許されないのだ。直ぐさま、私と父は祖母のいる居間へと駆け込んだ。
「お母さん、お母さん」
父がベットと手すりの間に挟まって身動きが取れないでいる祖母に声を掛けたが、全く反応がなかった。私は祖母の両足にやや赤みががった紫の死斑が広がっているのを確認すると、諦めの方が希望よりも先に私の心を強く占めていくのを感じた。
「呼吸は?」
「この体勢ではわからん。動かした方がいいのか?」
脳梗塞動脈硬化の恐れがあるから、へんに動かすとまずいことになる」
父の動揺が私にも伝わるが、どこか私は冷静でいられたのはどうしたことかと今でも不思議だ。恐らく私はこうした事態に遭遇する事が多いためであろう。
交通事故、鉄道事故、引ったくり、痴漢、自殺未遂者、急病者や泥酔者の対応、どういうわけだが、こうした事態に遭遇し易く、行きがかり上、私が警察や消防に通報することになり、救援が来るまでの対応をすることになる。
この時もそういう役回りだった。
咄嗟に私が119番通報をする。
「祖母が倒れている。直ぐに救急車を。住所は…」
「直ぐに向かいます、老松出張所からご自宅まで近くなので2分とかからないと思いますが、できるのであれば横にして人工呼吸をしてください。」
勢いよくスーツの上着を脱いで、祖母の身体を処置のために動かそうとした時には、既に救急車のけたたましいサイレン音が聴こえ、対応の早さに感謝した。こうした事態に何度もめぐり合わせたところで、慣れることは恐らくないだろう。ただ、頭に浮かんだ事をやるしか方法はないのだ。
サイレンの音を聞いて、このまま何もしなくても後は救急隊がやるはずだと安堵して、父を見ると、憔悴しきっていたその表情も僅かに緩んだ。
「このまま待とう、すぐに来るだろ?」
「ああ」
私たち二人は微かな希望にすがって、救急隊を待つしかなかった。
助かる見込みは限りなくゼロに近いとは思ったが、それを口に出せば、忽ち希望は消え失せる気がして言えなかった。
ただ救急車がやって来ると分かっただけでもありがたかった。
電話をしてからものの1分とかからず、救急隊は戸口に現れた。
「病人はどちらですか?」
「居間の方です」
私が救急隊を案内しているのを、精神疾患の患者特有のジト目で叔母は眺めていたが、その目に正気は感じられなかった。まるで母親の異変など他人事のように思っているかのようにタバコをふかしていた。その姿を見て、私は奥歯を何度も噛み締めて怒りが沸くのを抑えたが、やはり難しく、祖母の処置にあたっている隊員たちが口を揃えて、「もう死斑が出ている」と言っていたのを潮に戸外に出た。
もう死んだのも同然だった。
学生時代、終電で、河原町から上新庄まで一人、帰る途中、茨木市駅で乗り換えの都合で準急の電車をホームで待っていた時、老人がまるで眠っているかのようにベンチに腰をかけているのが視線に入った。しかしどうも様子がおかしかった。足を露出している部分に、祖母に出ていたものとほぼ同じの紫の斑が出ていたのだった。その時、それが死斑とは知らず、物好きな私は、準急電車が来たら、声を掛けようと思い、その隣まで行くと、その拍子に老人は静かにホームの床に倒れこんだ。
やがて群がる人たちとこの老人を駅長室まで運んで救急隊が来るのを待った。
そのときも処置に当たっていた救急隊の一人が、「死斑が出ているし、救命処置もこれ以上は効果がない」と、警察に後を任せて帰ったことがあった。その日、私は茨木市駅から聴取のために終電で帰れず、歩いて帰ったと思う。病院死でないと、警察に執拗に事情を聞かれるのだとその時知った。
それと同じことが祖母に起きたのだと私はすぐにわかった。あと警察が検死と事情聴取を行い、医師を呼んで死亡検案書を作成をする、長丁場が予想された。
野次馬連中が挙って我が家の玄関先を見ていたところへ、私が一人出てきたものだから、彼らは皆、私に、「どうしたの?」と聞く。
「ああ、ばあさんが倒れた。多分もう…」
こう答える私に彼らもこれ以上の問いを投げかける事はなかったものの、目では、あの家の娘がキチガイだからこうなったのだと語っているところがあった。
一先ず軒先でタバコの一本吸っていると、救急隊が出てきて、私に向かって憔悴しきった様子で首を横に振る。
「もう私らには…。あとは警察が来ますので…。」「ええ、ありがとうございました」
こうして祖母は死んだ事が改めて身に染みた。
再び家に戻ると、応接間のベットの縁に腰かけて叔母は買い置きしていた菓子パンをむしゃむしゃ食べていた。なんて野郎だと思わず殴りかかりそうになるのをなんとかやり過ごして居間に戻ると、ベットに祖母は寝かされていた。死に目をだれにも看取られる事なく、しばらく放置されたのだと、窪んだその鼻をみて堪えきれなかった。父は、祖母の死を他人事のように振る舞う叔母のことを親不孝者と声を荒げた。
「お前、一緒に住んでてなんなんだ!」
「私だって一生懸命やったもん」
叔母の幼稚なこんな反論を聞いて、祖母が浮かばれないとやや落胆した気持で私は警察が来るのを待つことにした。涙も出なかった。

こうして、五年に及ぶ祖母の介護は終わった。そして、今、私は巡り合わせ上、叔母の生活補助を行うことになった。だが、それも長くは続くまい。というのも私はこの叔母に愛情を注げる力があった祖母ではないのだ。
深夜にコーヒーを叔母に催促されても平気でいられる余力も日中働きに出ている私には無いし、毎日糞尿で汚れた服を洗濯したり寝床を掃除したりする余裕もない。
それに今の女と新たに居を構えて生活しなくてはならないし、今の営業の仕事には私の性格上不適格ゆえに新たに職だって探さなくてはならない。つまり自身の人生がこのままでは危ういのである。なのに、病院も行政もこうした5080問題が生じている所帯には、ほとんどの場合、本人の意思とマンパワー不足を理由に対応しないと来ている。
率直に言えば、こうした現状の中で、長寿国日本を誇られるのは、迷惑極まりない話で、長生きすればするほど家族が割りを食うのが現実である。どこをどう見ても、無理に長生きなんてされた日には周囲は迷惑するだけなのだ。
もしも、地域社会がうまく連携が取れていれば、手を差し伸べられる機会も私や叔母にはあったろうが、しかし、それも叶わなかった。 全てが各個人任せで力が及ばない場合は自己責任と言われてしまうのである。
死を遠ざけて個別に分断され漂流させるだけさせておく、そこには何の生き甲斐もない。
今の日本の問題は社会の最小単位である家庭でもすでに起きている、私は祖母の介護でそれを理解した。しかし誰もそれをどうすることもできない。
最後に、モーパッサンの「女の一生」からの引用で恐縮だが、「この世は、思ったよりも良くもなく悪くもない」と、召使いのロザリが不運に振り回されている女主人に言った最後のセリフの真意が分かったような気がした。
失望に苛まれても、最愛の家族に裏切られても、どうすることもできない無力感に侵されても、結局は丸く収まる、そう思うことにしよう。