私の遍歴

 私がある大手新聞社の最終面接で落ちた理由は、消費増税とTPP交渉参加の是非を巡る議論で、その場で元財務官僚と国立大の経済学部の元大学教授の二つの肩書を持つ取締役と対立し、彼の言説を一つ一つに反論し、その上でこう追い討ちをかけたためである。
「あなた方の誤った言説こそが、これまで20年近く、多くの日本人を殺した。新聞等の大きな力を持ったメディアが誤ったプロパカンダを流すだけの謀略機関に過ぎないのであれば、きっとあなた方のことを、自説の正当性のためだけに、後世の将来を犠牲にしたものと、辛辣に、そして、あなた方をまるで犯罪者のように、歴史家は書くに違いないでしょう。」
最後、私はこう締めくくって、その場を去った。あれは10年前のちょうどこの季節のこと。
 それから私の予想通り、消費増税した結果、景気はさらに悪化し、再デフレ化した。また小さな政府論に基づく新自由主義的政策と国民の生活を無視したグローバル化政策が推進されるに至って、世相は一層暗くなった。
  経済について知るきっかけは、この最終面接のちょうど一年前の梅雨の頃、尼崎にあるかんなみ新地で売春している女と、その店先で話したことだった。彼女は、若い私に、「橋下さんとかいるけど、あんなのお陰で、娘が通っている私学の幼稚園の補助金が減って、通園費が嵩むばかり。あんなのを支持している人はきっと世間知らずやよ。」と、教えてくれたのだった。そのこと以来、大阪維新の会の政策の根底にある政治思想について考察すると、彼らを支持する人たちの無教養さと不勉強さ、乱雑さが、明らかとなり、私も不支持に回った。一体、あれを支持していたのはなんであったか?私の不勉強もあったが、おそらく、あれは「空気」だった。
 あの空気に逆らえば、無視され孤立するという恐れが全体にはあったのだろう。
 ここで詫びなくてはならないのは、学生時分の私は全く不勉強の白痴であり、自由平等博愛などいう近代社会の空虚な標語のようなものを無条件に信じていたノンポリであったこと。そして大学という場に足を踏み入れたばっかりに世間というものをかなり甘く見てしまったことである。私は、ビジネス社会に適合した立派な人間ではないが、それでも世間について意見を述べれば、世間はとんでもなく不確実で偶然や運命といった不可避なものに大きく左右されるもので、ビジネス界のいうPDCAやら自己啓発やらいった単純極まる合理性では問題は解決しない、解決するものは、きっと思想ー古くから営々と守られてきた伝統ではなかろうかと。
 さて、その伝統はどこにいった??どこにも見当たらない、フランスの思想家トクヴィルのいうところ、「平等は、我々を互いに孤立させ、最大多数の力から無防備にさせる」との指摘からみて、伝統を戦後大多数が忌み嫌った結果、この共通の観念である伝統を、もはや世界で最も長い歴史を持つ日本人ですら持ち合わせていないのだ、つまり、この世間の問題ー貧困、孤立、児童虐待、経済の停滞等々の解決は、絶望的なことであるが、今の日本人には到底できないのである。トクヴィルのほかの指摘通り、「平等は、自分のことしか考えられなくしてしまう」、未来、過去、現代のいった一連の時間軸でものを見ることを、とりわけ戦後、平等という概念が本格的に入ってきたからは、日本人は辞めたのだった。今、活躍しているビジネス界の連中を見てみればいい、彼らの主張の根底には、「今だけ、金だけ、自分だけ」という当座のことしか気に掛けない危うさがある。
 若い私が、経済や政治について改め考え直したのは、紛れもなく、世間で底辺といわれる階層ーつまり風俗嬢、ホームレス、日雇い労働者、シングルマザー、精神疾患患者との交流にほかならない。彼らは、政治という金持ちの享楽と化したものの無視された犠牲者である。彼らの一言一言には、政治家、ジャーナリスト、作家、学者といったエリート層にはない重みがある。そう、彼らの言葉には日に日に悪化する生活と毎日戦っている身に迫る抗いがたい現実感が伴っている。
 世相と人心が乱れる時代の政治は、一主権者たる国民が真剣に議論ができる環境でないと、その運営と維持は困難であり、もしここで誤れば、間接的に人を殺すのである。一つでも誤れば人を殺す可能性があるという緊張感というものが、あいにく大阪維新の会には無かった。彼らが声高に主張する内容の多くは、ソ連という敵国が負けた90年代初頭から持て囃されたものの焼き増しに過ぎず、自殺や貧困、或いは未整備のインフラ等の身近な問題からはかけ離れていた。西成の安宿や三角公園近辺、新今宮駅の付近、或いは、兎我野町や日本橋等にある安ラブホテル街に、屯して生活に追われる人たちのことなど、全く考えていなかった。それらを自己責任と称し、見捨て、「難波の人情こそ、大阪の持ち味です」などと、浮かれた口調で絶えず選挙カーのスピーカーから謳いつつ、彼ら維新の会は自身が目立つこと、そして自分たちが常に優位に立つことしか考えて来なかったのだった。冷静に見てあれは奇妙な光景だった。
 彼ら、おおさか維新の会の政策が失敗に終わり、住民が路頭に迷ったら、彼ら政治家はどう責任を取ろうというのだろう?きっと、自分のしでかした失敗の原因は、抵抗勢力によって改革が足りなかったというのだろう。これこそ無責任というのではないか?
  その延長で、未だに世間で跋扈する新自由主義や緊縮財政政策について調べてみたところ、やはり、おおさか維新の会への不支持を頂いたときと同様に、浅薄さと議論の乱暴さを感じ、すっかり、世間で少数派に属する考え方に染まったのだった。
  自国通貨建の国債を発行する国で財政破綻などあり得ないし、そもそも社会保障のために増税する意味もない。税の目的は、財源にあらず、インフレ率の抑制と再分配にある。ーこのことは経済学者にとって異端らしい、インフレこそ恐怖することらしい、現在、デフレなのにインフレを恐れる意味がどこにある?ーまた、競争社会と人は言うが、その競争とは、デフレでは全体のパイの奪い合いに過ぎず、貨幣価値の上がるデフレでは資金力が強いものの勝利に終わり、弱者は常に不利な目に遭う。ーこれはビジネス社会にとって異端らしい、彼らは努力を人に求めるが、その結果に対する報酬は払いたがらないのだが。-そんな文明は多様性と強靭性を失い没落するといった結論を持つに至った。
   ロックバンドのOasisの曲の歌詞から引用するのは、大変稚拙と思われるが、この歌詞の通り、働く価値などない、だって、日本の場合は、物価と同様に賃金が年々下がり続けるデフレであり、全体のパイが増えない限りにおいて、金儲けをしたところで、それは結局、誰かの所得を奪っているに過ぎないのだ。それにだ、デフレ経済の下でどんだけ頑張ってもその報酬は下がり続ける、若しくは報われる日は来ないことは明らかである。
 しかも、この問題について、適切に論じた経済学者が、ネット以外の大手メディアではお目見えすることはなく、大体は、人々が抱く生活の苛立ちを煽り、新自由主義的、或いは、グローバル化的政策の支持を取り付けようと画策したりして、国家全体を分断することに躍起だった。
「公務員は既得権益を貪る怪しからん連中だ」
  その結果、公務員の約1/5が非正規雇用になる異常事態。何が進歩?これは後退ではないか?公務員数が世界的に見てもかなり少ないこの国で、一体。どうして彼ら公務員が叩かれないといけないのか、理解に苦しむところである。  ー例えば、労働市場流動性、公共部門の民営化等々、考えてみれば、日々の苛立ちを逆手に取られているだけで、これらのことが進めば、おそらく、一層、日本全体は分断し、景気をさらに悪化し兼ねないし、緊急時に公共部門の対応は遅々となり、余計に被害者を出し兼ねない。
 メディア離れが深刻だと彼ら知識人は騒ぐが、それは当たり前の話である。彼らの話には、生活での利を得るところなど皆無で、目の前で起きている現実についてなんら説明していないのだ。彼らは、理論という空想の中でしか生きられない。
Is it worth the aggravation To find yourself a job when there's nothing worth working for?ー働く価値などのない仕事を見つけるのに、苛立っている意味などあるのか?ー
 全くこの国の政治論争の程度といったら、かなり低い上に、一般の労働者の感覚との乖離があまりに甚だしい。私も大学でエリート階層というものに若干触れてみたが、実際は、目の前の生活を危うくするものに加担する安逸で軽薄な思考回路を植えつけられるだけで、全く私には不必要なものだった。
 この国ではエリートになればなるほど、アホになる、そんなことを思って、無気力になり堕落していった過去。破れかぶれな青春。
 とっと高卒で働いて、自活していた方が遥かにマシだったと私は思う。
 大学で得たものは、取り返しのつかない過去と無駄に肥大化した自尊心、学費という膨大な借金しかなかった。
 スタンダールドストエフスキー、ゾラ、バルザック井原西鶴樋口一葉等の著作と、多少のレコード、多少の服とスニーカーさえあれば、私は満足だったのに、迷いの多かった当時、生活の安寧と体裁をエデンの園紛いな大学に求めたが、ひねくれている私には合わなかった。傲慢にも世の中を変えられると夢想したものだが、それもかなわず、現在、クソみたいな仕事をして、当座の生活をやり過ごしている。こんな私が同窓会にノコノコ出ていくわけにはいかない。