生きる歓びの喪失についてのこと。

 先日大阪であったカラオケパブの女性経営者殺害事件について、いろいろな憶測が飛び交っている。
 これを痴情の縺れといえば、一部分だけを見ればそうだろうとは思うものの、相手の好意にのみに一々左右される歪んだ自尊心に、いい歳をしたおっさんが散々苦しめられた挙句、相手を殺害することを厭わないという心理状態に陥ったというのが、あまりにも情けなく、極めて侘しさに満ちている。これが相思相愛の仲での縺れならば、弁護のしようもあったわけだが、この事件には一切そんなことはないのだから、殺された女性経営者の死は、身内の人間からすれば、悔やんでも悔やみきれず、怒りのやり場もなく、ただただ歯痒さだけが残るものだろう。
 ただ、いつの時代もこんなことはあったことだろうし、行きつけの飲み屋に足を運んで、愛想を振りまく若い姉ちゃんに会う以外に楽しみがない50代の親父などごまんといる。それについて特段問題視する意味などない。私が議論したいのはこんな他愛のないことではなく、人間がいとも簡単にある特定の人やものに執着して自滅していくその様子は、近代にあってはそう珍しいことではなく、寧ろ、これが自然だということである。
 昨今、多発しているように思えるストーカー犯罪をみれば、いかにしてこれを防ぐのかを年配のジャーナリストが心理学の用語を多用して訳知り顔に語っている。しかし、私には、近代という時代が、一旦動けば止まることは決してない自動機械の如く、情緒を潰しては、がむしゃらに効率と利益だけを人に求めるように仕向けていくこの猛烈な勢いにあっては、時間と共に、人間は情緒や幸福などを考える余裕を失い、如何にして自身の欲求を効率的かつ自身に有利な形で叶えるかにしか関心がなくなっているように見えて、ストーカー犯罪など法律や刑罰その他の設計主義的な議論で規制できる代物ではないかに思われる。法律とかルールとか作れば社会というものが健全に機能するという単純すぎる思考ばかりが蔓延ってる今、ほんとくだらない時代になったものだと痛感する。こんな設計主義的なことを言う者の多くが年配者と来ているのだから堪らない。すこしは人間の情緒なり生き方なり思想なりを振り返ってものを語って欲しいものだ。それこそ年長の功というものだろうに。これは日本の言論界に限った話ではない。ヨーロッパやアメリカでもこうした頭が偏屈な理論に冒されて専門用語ばかり多用する知識人は信じられないほど多く、庶民の暮らし向きなどに関心はなく、如何に自分が知的で成功しているように思われるに注意を専ら払っている。この度のコロナ騒動で明らかにしたように、テレビや新聞に出てくる専門家なる知識人など、単なるアドバルーンで、中身は空虚なものに過ぎないのだ。そう考えると、別に弁護するつもりなんてさらさらないけれど、彼らもまた人間らしさを失くした虚無の住民ともいえる。どれだけ予測を外し対策が失敗しても彼らは責任を取るどころか、ますます勢いづいて、人々の恐怖を過剰に煽っている。その姿のどこにも自責の念などほのめかすものがなく、あるのは傲慢さのみである。例えば東京五輪の開会式が単なるコンテンツを継ぎ接ぎしただけだったにも関わらず、その空虚さを目の当たりにしても、少しも胸を痛めない彼らの傲慢さがその証左といっていい。
「自分は努力でここまできたんだ。俺たちエリートたちのいうことを聞いてれば、いいんだよ、馬鹿な庶民は。」
 まさに善意と正義感の押し売り。馬鹿げた猿芝居の連続としか言いようがない。
 こんなところに生きる歓びなんてあろうものか。ヨーロッパやアメリカなどの先進国で多発するデモや暴動の多くはこれに起因している。専門人たるインテリたちの勝手な理論によってもたらされた生きる歓びの喪失に庶民は本気で怒っている。たしかに所得の減少とそれに伴う生活環境の悪化に関するものもあるが、それ以上に、彼らの怒りの矛先は、人間らしく時間と文化の中に慎ましく生きたいのに、そうはさせないインテリ連中へ向いているのだ。
 今回のストーカー事件も生きる歓びの喪失がもたらした悲劇という観点から見れば、もしかすると、解決の一助になる得るものがあるやもしれない。
 かつて吉原の遊女にうつつを抜かした庄屋のドラ息子が、その女の身請けをしたことを機に没落し始めて、最後は金魚の餌になるボウフラ売りとなって身を落とし、子供に着物の一枚を買い与えることができないまでの貧者として、今から吉原へと向かう友人たちと上野界隈で惨めな身なりで、邂逅するという話が江戸期にあったが、この時代は現代と違ってまだ思い定めた女と所帯を持つという生きる歓びがあり、まだ救われる部分があった。どれだけどん底に堕ちたとて人々は信仰心というものがあり、死後の世界の可能性さえも信じられていた。心中物を厳しく規制したとはいえ、幕府もそれを黙認していた部分があった。いくら人心を抑えようとて言論を規制するのは難しいと体制側も分かっていたに違いないし、政策によって人々の歓びや願望、そしてそれらを裏打ちする裏表のない素朴で実直な暮らしを徹底的に打ち壊せば、自身の体制が容易に崩壊しかねないと考えていたように思う。
 しかし、今や、所帯を持つことすら、年々に減少しつつある収入という面と効率性と利便性を重視するという退廃的文化の面で大きく憚れるのである。江戸期と現代を比較するまでもないが、文化的な開きが余りにも大きいというのは否めない。時代を経る毎に暮らし向きが悪くなっている中、誰が文化的な価値を創造したり評価したりして残そうとするのだろうか。しかも、幕府や帝国政府とは正反対に、現在の自公政権自らが人々の暮らしとこれまで培ってきた共同体を「グローバル化」「多様性」「民間の知恵の活用」「アウフヘーベン」「維新」などの美辞麗句で人々を騙してはぶっ壊している。
 意識の高いエリート層の無責任な「自己責任」と「自助」という言葉に生真面目に翻弄されて思い詰めて、その結果、生きる歓びを感ずることができなくなった人たちが、今後どのような振る舞いをするかは想像に難くない。最近起きた小田急線の事件はそうではないだろうか。自我のよりどころとする綿々とつづく故郷もなく孤立しているうえに、いくら働けども低賃金労働か、いくら会社に貢献しても決して自分のものにはならない功績とあらば、当然、誰しもがおかしくなる。それをどうすることもなく、人はスマートファンの画面にばかり見つめて無為な時間を過ごす。もはや日本は日本ではなくなった、建国より2680年来の時間の中から、現代ニッポンは完全に孤立し、そして蹂躙されていく。生きる歓び以前に生きること自体に不安が立ち込めている現代ニッポンにおいて、一体誰が他人のことなど考えようか。そして、自身で所帯を持って、並みの暮らしの中で感ずるであろう生きる歓びすらないとあれば、一体誰が自分以外の人を幸福にしようと考えるのだろうか。
 結論としてはかなり不適切で、どこか議論が曲折している感は否めないが、生きる歓びの喪失というものが、今になってようやく取り沙汰されている所得の減少とそれに伴う貨幣価値の不可避的な上昇に大きく関連しており、故にこのストーカーの親父もまたこれまで遊びで遣った金の見返りをこの若い女性経営者に求めたとしてもなんら不思議ではない。こんなことを平気の平左でやってしまうのは男としてどうかとは確かに思うが、現代人なんて所詮こんなものだ。絶えず見返りを要求する身勝手なものだ。こんなことは風俗狂いで自家撞着にすら気づかず自己欺瞞している男がかなりの割合でいることをみれば分かることで、なんら不可思議でもない。デフレという物価下落の圧力の中にあれば、欲得でしか勘定できない人間が指数関数的に増えても致し方ない。
 ただ、一方的な相手への想いを成し遂げるためだけに殺人を犯したという狂気にはどうも合点はいかない。もしかすると、これは「全ては脱構築され、全てが相対的な価値しかない」というポストモダンの影響かも知れないが、現代人の中には一方的で合点のいかない想いを自分なりに曲解し正当化してしまう術を持っている者がなかにはいて、今回、それが人を傷つけるといった形で露見しただけのことかもしれない。
 それ故に、悲しいかな、人というものをあまり無邪気に信用することは止そうと、私はこの事件を受けて思うてしまう。かつてあった生きる歓びを取り返されないことには、これからの未来もこの事件のように不意打ちに暗転させられる気がしてならない。生きる歓びを無くした現代人の心にはどこか狂気が潜んでいる、これが絶え間なく多くの不条理な悲劇を生むのだろう。