自己責任論についてのこと

 昨年は殊更、コロナ禍という、誰も責めることなどとでもできない緊急事態にも関わらず、自分を責め続け苦しんでいる人たちが多いように思われた。日本の最高権力者であり、日本人の生活を預かる総理大臣ですら、「自助」を強調して、国民の困窮に手を差し伸ばすことはほとんどなかったのだ。
 時折、飲んだ帰りの夜明け前あたり、公園で見かける炊き出しの列に、若い人がちらほら並んでいるのが目立つ様になってきた。いよいよこの自己責任論が行き詰まり、いくら言い繕うにもこればかりは正当化できるものではないことが明らかになった。というのも、いくら頑張っても、いくら努力しても、一旦、レールから逸れた人間には、いつまで経っても低賃金労働しか当てがなく、失敗は許されない。なんと冷酷な世界だ。これをみて、まともな環境の一つも用意できない老害どもは、いくら頑張っても報われず冷飯ばかり食わされている人たちに、職があるだけの薄給の見込みしかない境遇に満足しろとでも言いたいのか?ー彼らの言葉が悉く浮薄。彼らの好きな音楽や映画、文学をみれば、分かる。
 例えば、村上春樹。彼は、グズグズしていつまでも煮え切らないニューヨークの町でたむろしていた青年たちが、自国アメリカという国の宿命たる「自己不在」の本質から目を逸らすために、がむしゃらになって拵えた派手で薄っぺらい貸衣装に憧れている痛いおっさんだろ?彼の文章は不協和音、甚だしく、いかに自身を着飾ることに苦心しているのかが滲み出ている。彼はいつだって本質から逃げてばかりで積み重なる虚無に鈍感だ。これが日本を代表する作家かよ?ー
 どこが自由で平等で博愛だ?
 SDGsの一番目にある「貧困を無くそう」という標語が至る所で声高に叫ばれている一方で、エリートどもは、明日の飯にすら買うに困っているワーキングプアの人たちや幾度となく発出される緊急事態宣言で経営が疲弊していく飲食店に勤める従業員たちのことなどには一切関心の目を向けたくないようで、
「コロナ感染を防ぐためにマスクをしてワクチンを打って」とか、
「今の日本経済に活気がないのは、イノベーションがないからだ、そのためにはまだ構造改革が必要だ」とか、したり顔で言うてたりする。これはまさに偽善だな。
 こちら側の、いわゆる市井の、もっと具体的に言えば、来年こそはいい年になる事を祈ってやまない、40代以下、或いは年収400万以下の層にいる人間の心には、全く響かない様なことばかり言い募り、彼らエリートどもは、茶を濁しているとしか思えない。
 昼飯は300円以内に済ませ、夕飯はスーパーの惣菜コーナーで何とか買えた見切り品という暮らしを18の頃から続けている私にとって、テレビや新聞で扱うことなどまるで次元の違うところの出来事の様に映る。
 多くの人々は理念のためには生きていない、ただ、平凡に、普通に、安定的に、幾分今後のことに煩わされることなく暮らしていければよかったはずなのに、しょっちゅう、コロナ騒ぎだの移民だの補助金だの税金だのと生活が掻き乱されて、挙げ句の果てには職場を変えることを余儀なくされたり、或いは身内の中で互いに半目する羽目になっている。多くの人たちがわずかな日銭のために苦心惨憺していると彼らインテリたちは分からないのだろうか?
 コロナ禍でこの閉塞した状況がますます顕在化したにも関わらず、ほとんど誰からもまともな異議が驚くほどに出ていない。40代以下の若年層の多くが今後の生活に安心できる見通しもなく、ただ、昇給の見込みのない今の仕事に這いつくばるしかない現状に苦しんでいるのに、なぜ、その親の世代を始め、多くの日本人たちはこれに文句ひとつ言わないのか、私には疑問で仕方がない。
 考察すればするほど、今の日本人は他人の人生には冷酷にならざるを得ないくらいに、現在の生活のことを考える余裕しかないこと、そして、それを正当化できる自己責任論というものが強く信じられているように見える。でなければ、特別給付金せよ、助成金にせよ、その対象が誰であっても問題にはならなかったはずだろう。たとえそれが風俗嬢であっても、ヤクザであっても、同じ日本人であるならば、政府は彼らを救うべきである。彼らがこんな如何わしい業界に依存せずに生活できる環境を徐々にでも創り上げること、それが政府の本来の役割ではなかったか。
 少なくとも政治家や言論人など、世間一般では先生と呼ばれる職業の人間ならば、自己責任論などという余りにも不確実で不明瞭な言葉を発することの誤りと弊害を全力で訂正する様に努めるべきだったと私は思う。しかし、そんな声は下世話なネットの中の騒音に掻き消されているか、或いは、硬直化した空気の中で言えないままになっているかしているようで、これに関して心の琴線に触れるような議論は聞こえてこない。
 コロナ禍は私にとってますます世間に対して懐疑心を強めるばかりで、どれだけ感染者が出ようが、いくらワクチンを打てと言われようが、これらの観点がどうもピンボケしている様に思えて、私自身、世間から遠ざかって、フランスやロシアなどヨーロッパや日本の古典の世界に没頭したくなる。
 何しろ、自粛しろと言って、政府は、10万たらずの二束三文の金とサイズ違いのマスク二枚しか出さず、コロナ恐慌で特に経済的損失が大きい、派遣切りで家のない人たち、住所を持たないネットカフェ難民にとって大きな負担となっている消費税を下げる議論さえもせず、決して困窮者を助けようとはしていないのだから。こんな体たらくの政府に果たしてどこに弁解できる余地があるといえるのか。
 国家の財政危機やプライマリーバランス黒字化という荒唐無稽な論理に基づいてさも自分たちは清廉潔白で国士だという顔で、政権与党の自民党公明党は国民を救うべき役割を実質的に放棄している。
 この政府の無策を正当化するために自己責任という言葉が世間で頻繁に聞かれる様になったのだろうかとさえ思えてくる。だとすると、これは壮大な欺瞞であり、決して看過できるものではない。それでも世間で立派とされる大人たちは、弱者の惨めな生活と怠惰な態度を彼らの自己責任だと決めつけ、今の富裕な現状は自分の努力の賜物といったふうで、社会の荒廃と分断を放置しているだけでなく助長さえしている。恐らく彼ら大人たちは、この無関心の災禍が自分のところに降りかかってくると露にも知らないようだ。遅かれ早かれこんな国は溶解して滅びるのは間違いないと、私はそう結論づける。

日本維新の会の躍進に関すること。

 国民民主党とれいわ新選組が、先進国で唯一日本だけが停滞している実質賃金や税と社会保障の負担がもたらす可処分所得の減退などといった貧困問題への解決に向けて、具体的な道筋のついた政策を立案して選挙に臨み、僅かではあったものの、議席数を伸ばしたのは、既存政党の力が強く影響の出る小選挙区制において、快挙といっていい。これこそが本来の民意の反映である。
 一方、人材派遣会社大手パソナの取締役会長である竹中平蔵や、自助ばかり強調して総理大臣在任中はコロナ禍で困窮する国民を一切救おうとしなかった菅義偉、戦前は満州アヘン利権、戦後は公営ギャンブルの利権を貪っている日本財団の笹川家、時代遅れのコンテンツしか作れない癖して中抜きだけは大胆な世界最大手の広告代理店電通などのグローバリストたちが影で操っている日本維新の会の躍進は非常に危険だ。大阪で行った多くの悪政が日本全国に拡大する恐れがある。在阪メディアは維新の会を依怙贔屓と思われるぐらいに批判も碌にせずに甘やかしている。
 たしかに維新の会のメディア戦略がうまいのが今回の躍進の理由だろうが、しかし、大阪府はコロナ対応に大きく失敗して今や日本で一番死者数が多く、予算削減の影響で、公立病院ではコロナ対応できる病床が日本で一番足りないのに、大阪では維新の会をやたらと救世主の如く持ち上げている。
「大阪には維新の会があって、彼らがこれまでの問題を解決している。今はまだその完成がなされていないだけで、これから改革がより進めば、きっとうまくいく」
 私からすると情勢に無頓着で自ら無知を晒すような、こんな声を大阪に行くたびに至る所で聞いたものだ。
 この不可思議な現象は、認知的不協和というべきもので、目の前の現実と認識とがあまりにもかけ離れている。
 まさにヒトラーがモスクワ侵攻に失敗した後、実際の情勢を国民に伝えることなく、宣伝工作でユダヤ人や精神障害者などの社会的弱者に国民のルサンチマン(鬱積した怒り)を先鋭化させたうえで差し向けて、ドイツ軍がソ連軍に巻き返されていることから多くの目を逸らした時代とまんまそっくりだ。「国の発展を邪魔する人間がヨーロッパ大陸にいるからこそ、ナチスの作戦がうまくいかなかった」と、どんどん弱者を設定していった、これと維新の会の世論工作がどうも被って見えて仕方ない。
 公務員を叩き、組合を叩き、医療関係者を叩き、自民党大阪府連を叩き、次から次へと攻撃対象を変えていく、ほんと一貫性のない連中で、自分たちの権力基盤が強力になるためなら、味方すら攻撃しかねないこの維新の会のやり方をみると、彼らは全体主義集団と言ってもいいのではなかろうか。
 言論の自由が保障されているこの日本で、ナチス中国共産党ソ連共産党に匹敵するような情報操作と隠蔽が行われているかもしれないと思うくらい、大阪でのこの維新の会の躍進は明らかに不自然である。これが日本全体に拡がるとなったとき、言論の自由は果たしてどうなるのかと思うと、背筋が凍ってしまう思いだ。全体主義の到来が民主主義の正式な手続きの中で生まれていく過程をこの現代に見ているようで本当に戦慄しか覚えない。
 取り返しのつかないことにならぬように、早いこと、その芽を潰す必要があるが、維新の会の危険性に気づいている人はどの程度いるのだろう。15年前はそんな人間はほとんど居なかったし、もし橋下徹氏に歯向かうようなことを言おうものなら、職場でも学校でも人間扱いさえされなかった。それぐらいに、みんな、維新の会に夢中だった。
「橋下さん、ええ仕事をしてはりますな」
 当時、そんな声が至るところで聞かれ、彼のやり方に反対する者は憎むべき既得権益者として排除されていった。
 しかし今では積極財政と公的部門の重要性、IR(通称、カジノ誘致)や都構想の危険性を大っぴらに言えることからも、この維新の会の危険性に気づいている人は当時よりは多いかとは思うが、どうであろう。今回の選挙結果からして15年前とあまりに変わってはいないであろうか。
 また、この維新の会がもし自公と連立して与党にでもなったら、大阪のみならず、日本全体が主に中国共産党の草刈り場になる。現在、心斎橋や日本橋、難波などのミナミの町が徐々に中国資本に乗っ取られているのを見て、まだ維新の会が保守派だと多くの人たちに思われているのが、本当に理解に苦しむ。保守派とは、本来、日本人の生活を守り、他国の侵略を阻止する人たちのことを言うのに、大阪では、インフラや土地、水資源などの資産を、他国に売り渡し、言葉巧みに失政を隠蔽して住民を騙し、自分たちの利権を新たに作ってそれを貪ることが、保守派ということになるらしい。
 一年前の大阪都構想(実際は政令指定都市である大阪市を廃止して、その莫大な財源を府がぶん取るというとんでもない構想。これにより大阪市だった区域の行政サービスは一挙に低下する上に、大阪のみならず、関西圏全域の経済成長を大きく抑制するもの)の住民投票で、その実現を阻止した日本共産党、れいわ新選組のほうが、よっぽど彼らよりも保守派ではないか。
 言葉の定義の乱れと捻れで認識が歪められた結果、住民自ら、維新を支持することで自身の生活を苦しめていることにも気づかずにいる。まるでジョージオーウェルが著作1984で描いた全体主義社会のようだ。1984の世界の住民も、誰に支配され、誰に思想と行動を管理されているか、知らないのだ。そしてそのことを彼らもまた幸福とも不幸とも思わない。それが当たり前なのだ。
 今回の維新の躍進で、かつての文化都市大坂の面影がこのように一切消し去ってしまったように思われて、個人的には非常に哀しく侘しい。
「身を切る改革がまだ本格化していない。改革が足りない」
と、今回当選した維新の会の議員が白痴のように国会で叫ぶのであろう。
「その身ィって誰のなん?まさか、それ、うちらの身ィちゃうやろな?」
 こう突っ込む人がもっと増えることを切実に祈る。彼らは、結果が悪いと自責の念など持たず、まだ改革が足りないとしか言わないので、議論なんてとてもできない。そもそも議論なんて高尚なそんなことする気も多分ないだろう。彼らは数で勝って決定権を握りたいだけの烏合の衆なので、論理的に突っ込めば、地蔵みたいに黙るかキレた猿みたいに威嚇するかのどちらかだろう。こんな軽薄で空虚で、頭が文字通りクルクルパーな連中が政治の表舞台にいる異常事態、日本の没落の前兆を私はこの日本維新の会の躍進に見る。

総選挙に関すること。

総選挙も終わったので日本の貧困問題について改めて考察する。
選挙結果からして、岸田内閣では、この問題の解決はまず難しいだろう。もうこれは確定事項だ。報道で見る限り、日本が良くなることは、これから30年間はとても期待できないでしょう。
 
日本人の実質賃金が上昇するのに大きな足枷となっている、消費税の減税あるいは廃止と、法的根拠もなく年々支払額が増えていく保険料や年金などの社会保障負担の減免について、この政権は一切議論せずに、「新しい資本主義」と連呼しつつも、これまで同様、空虚で一部の既得権を新たに生むだけに過ぎない、竹中・アトキンソン路線たる新自由主義グローバル化路線/財務省主導の増税緊縮財政路線へと舵を切ったのだから。
要は、目指す理想はやたらと高尚で耳障りはいいものの、そこに至るまでの現実的な距離感なり時間なりを測ることをせず、惰性でこれまでのやり方に依存しているように見える。(経路依存性)またここで新規に物事を変えることでこれまでのことが否定されてしまうことを恐れているようにも見える。(センメルベイス反射)
この国はあらゆる面で堕落しきった。戦後の混乱期がもっと長引いていたらよかったと思う。もっと本質的に、もっと具体的に、日本人が明治以来たった80年の間で、どれほど近代文明に侵され堕落してきたか、そしてそこからの転換をいかにするかを、当時であれば、敗戦の心理的動揺が生々しいゆえに、大いに考えたに違いなかったのに。この事なしに日本文明の復活はないではなかろうか。真剣になれきれなかったツケが、戦後から75年経った今、経済的・心理的な不安と戦慄、絶望となって、現代の、特に40代以下の若年層に不条理に襲いかかっている。
 
岸田政権発足当初掲げていた、「令和の所得倍増」というからには、総所得に占める税と社会保障の負担に関する問題を避けては通れまい。それにも関わらず、財務省かそれとも経団連か、或いは経済同友会かは知らぬが、どこかしらに慮って、税と社会保険料の異様に重い負担を減らすことを議論することなしに財界やグローバリストが提唱したまんまの政策を実行する気なのだろう。
国家が本来の役割(公助)を放棄し、これまで温存していた中間共同体(共助)を破壊し、そして、国民にありとあらゆる結果を自己責任と称して、たとえ国民が死に至ることがあっても放置するのだろう。(自助の強調)
このままデフレを放置して、こんな浮ついた議論ばかりで物事が決定されると、これまで営々と培ってきた生産力、すなわち、供給力が、確実に毀損させていくことになる。デフレの今、民間では、設備投資したり人を新たに雇用したりしても何ら便益をもたらさない。経済合理性から見て、いつまでも投資だの雇用だのに固執する必要はないのだ。と、なると、誰がどう見ても、その生産能力を維持する労力は無駄のように思われて、最終的には棄損されていき、消滅する。
 このデフレの恐ろしさが体制側はまだ分からないのだろう。
 これはすなわち、経済の自死を意味する。もし世界経済の混乱その他で、日本に海外から食糧や医薬品、原油などの生活必需品が入らなくなった場合には、デフレでその生産能力が不足或いは皆無になっているために、ことに輸入に頼っている分野のものであれば、その物価は急激に上がり、日本人の多くはそれに対応しきれず、必然的に飢えることになるのだ。
 金だけでは生活の安全は変えない。金以外にも、国家権力と生産能力、これらが揃ってこそ、生活の安全なのだ。これを知らない人があまりにも多い。
 以上のことから、デフレがもたらす悪影響は、単に物価下落に伴う賃金下降のみならず、国の生産能力を長期間にわたって著しく毀損した結果、その生産能力が皆無となったが故に、(たとえグローバル化でそれを補填していたとしても、)常に年々高くなる物資を海外から購入せざるを得ない状態になれば、供給能力不足による強制的なインフレ、すなわち、スタグフレーションー海外からの物資に頼れば頼るほど、賃金下落と物価高騰の圧力が強くなる。従って給与や所得の約40%が税と社会保障費で取られて、ただでさえ可処分所得が少ないところへ、こんな外からの圧力がかかれば、ますます生活困窮者が増えるばかりで、社会は騒乱状態となるーに陥っていく。
 これを食い止めるには、さてどうすればいいのかといえば、日本の場合には、まずは国内物価下落、すなわちデフレを脱却することしかない。
ところが、この国では財務省がマスコミ、学会、財界を通じて広められた財政破綻の嘘話が罷り通っているため、赤字国債発行―政府と日銀の統合政府の債権たる日本円の市場供給による総需要不足の単なる穴埋め―が出来ず、プライマリーバランス黒字化なる荒唐無稽なものが正当なもののように信じられてしまうのだ。
その上、政治家も財界人も国ではどうすることもできないと途方に暮れ、国民生活を犠牲にしてでも、TPPやRCEP、EPAなどの国内法よりも優位に立つ自由貿易協定をやたらと結ぶことはやむを得ないことのように思いこむ。
それに合わせて、構造改革を連呼して、水道などのインフラの民営化による国内資産の外資への売却を進めて、国内の法律がどんどん改悪されていく。競争の激化による弱者の淘汰、強制的需要削減がこの本質である。
またグローバル化は、デフレをさらに悪化させる。供給能力を他国に補填させる意味があるゆえに、供給量だけが一方的に上がるので、ますます需要不足は深刻化する。
即ち、構造改革グローバル化、ともに同時に推進すれば、デフレは一層加速する方向に働く。
 日本維新の会小泉政権と第二次安倍政権が、推進してきた政治とは、実質的に国民の貧困化を推進し、生活環境を悪化させてきたのとほぼ同じであり、それを国際協調だの国際競争力強化だのと、美辞麗句で世間の目を欺いてきたにすぎない。
 
財務省が推進しているプライマリーバランス黒字化とは、政府の赤字=民間の黒字の縮小であり、結果的には民間の所得を税金や保険料で政府に召し上げることで、政府の黒字を目的としたものであるから、従って、民間の所得は減るのは自明の理である。これは民間の黒字が減れば、その反対側にある、政府の赤字額が減るためで、貨幣の原理原則からいって当たり前のことである。
貨幣とは、手形であろうが小切手であろうが、日本銀行券(紙幣)であろうが、誰かが振りだした借用証書であり、赤字と黒字の関係は常に対照的になる。だれかが負債を抱えないと貨幣は新たに創出されず、その担保は、日本円と日本国債の場合では、国内の供給能力=国内の需要に対応し得る生産能力である。(お金で買えるものが身の回りに十分にある状態が維持されることが前提条件になる)
新規国債自体、政府が市中銀行からわざわざ国民の預金を借りてきて作られるものではなく、中央銀行である日銀か市中銀行が、国債と引き換えに、政府口座にある日銀当座預金の通帳データに金額の数字を書くだけで、0から作られる。つまり日本円の発行は、日本国内の供給能力の範囲内(デフレギャップの範囲内)であれば、いくら発行してもなんら問題がなく、その際気にするのは、額面ではなく、供給と需要のバランスを示唆するインフレ率である。総需要の不足で陥っているデフレの今、政府による財政出動こそが、日本のありとあらゆる問題にもっとも適した解決策となる。
 これらのことを踏まえて考えていくと、どの政党の政策がまともかははっきりしてくる。
明らかにダメなのは、大阪でパソナと組んで正規公務員の数を減らし続け、行政サービスを著しく低下させても、未だに、改革が足りないなどといって、馬鹿にみたいに「身を切る改革」を連呼して、その非を認めない日本維新の会、そして、未だにプライマリーバランス黒字化目標に固辞して、30年間、日本人の実質賃金を上げられなかった、与党自民党公明党である。
 その逆、つまり、赤字国債発行による生活補填と老朽化したインフラ整備、農家戸別補償による国内の食糧供給能力の強化、消費税の廃止または減税、高圧経済の達成などを掲げる野党の、国民民主党とれいわ新選組がもっとも経済政策において優れていることになる。
 今回の総選挙は、新自由主義グローバル化からの転換とデフレ脱却、日本の実質賃金を如何にして政治が上げていくかが、争点になるはずだったが、しかし与野党の主要な人たちは互いに罵詈雑言を浴びせるばかりで、困窮化する国民生活など関心が無いようだった。
 これで日本がよくなる見込みなど、普通の頭をしていれば、無いと思い、誰も選挙に行こうとはしないであろう。
 それに、まずデフレ脱却なくして、尖閣がどうだの、竹島がどうだの、中国による北海道の土地の買収がどうだの、外資による日本企業の資本買収がまずいだの、原発再稼働だの、と、いっても、何も始まらないし、ましてや生活が困窮している人たちに、どれだけ、清く正しく日本のことを考えろなどと言っても、そんなことを考える余裕がまずない。そんな空虚な精神論的な言葉は、彼らにとってはかなり残酷な上に、結果的に無駄口になるどころか、ただ反感を招き、社会の分断を進めていくのみで、ますます、他国、とりわけ中国の属国になる隙を自ら作るだけである。
 自民公明の与党の誤った経済政策によって、目先の金欲しさに、先祖代々引き継いだ土地や技術を高値で買ってくれる中国などの海外の資本を手放しで貧困化した日本人が歓迎するようなことになる前にやることは、まず、政府がやるべきは、デフレ脱却による日本の底辺層の底上げに他ならないのではないか。それが達成されて初めて、より本質的な防衛や安全保障、外交の議論に移れるのではないか、そんな気がしてならない。
 このまま日本人が分断された状態では、改憲議論にせよ、安保法案にせよ、原発にせよ、どうあがいても議論が中途半端なものに終わり、確実に将来に禍根を残すことになるのは確実である。
 貧困問題がこれだけ深刻で真剣に議論せねばならないのは、単に物質的なことではなく、人間の本来あるべき生きる歓びを奪い、未来に引き継ぐべきものを途絶えさせる危険があることと、これの常態化による日本社会の分断と文化の荒廃が、圧倒的な虚無を育み、最後には、日本人が誰かに支配されることを望むようになっていくためである。
人間は弱い、能動的な生き方をして自分で責任を取るよりも誰かの指示や命令で生きる安易な選択をするのが常である。そのほうが責任もないし、自分で考えなくてもいい、ただ命令や規範に従えば、支配者の保護下で安寧に暮らせるのだ。全体主義はいつだって人々を抑圧した結果のものではなく、人々が虚無感に打ちひしがれて、従うべき、抑圧的な指導者を熱烈に求めた結果に過ぎない。ナチスにしたって、選挙によって選ばれたし、中国共産党にしたって、毛沢東の権力闘争に狂喜乱舞した若者がその権力基盤を支えたのだ。
 
最近、テレビのニュース番組を久しぶりに見たのだが、ほんと反吐が出るほどひどい有り様だった。
 低俗で頓珍漢なことばかり言い募る国会議員とそれにしたり顔でうなずく年配の解説委員、偉そうな顔している割に言うことが浅薄すぎる金融アナリスト、そして、見栄えだけはいい若い女子アナたちが生真面目な顔して、経済関連のニュース番組を進行していた。番組の途中、日本がなぜここまで成長しないのかというテーマになった時、すでに使い古されている外来語を多用して支離滅裂な理論が展開されていた。出演者皆、恥ずかしげもなく、訳知り顔でこの論理展開には悦にいっている様子。最後に若い女子アナが視聴者に向かって、
「財源について真剣に議論すべきかと思います。それに財政問題は無視できません。これからの成長には抜本的な改革が必要かと思います。」
と、まるで本を読む調子の声で視聴者をまるで小馬鹿にするように呼びかけていたのを見て、この日本は没落する運命にあるのだなとつくづく思うものだ。いつまで人々に恐怖を煽れば彼らエリート層は満足なのだろうかと。
 
 
 
 
 先日、月刊誌文藝春秋に、大和魂から財政破綻を危惧するお馬鹿な私的論文を寄稿した矢野財務次官を引き合いに出してマスコミが財政破綻を未だに煽っていることから、自公政権増税路線•構造改革路線のまま続くことを予測していましたが、全くその通りでありました。そして、グローバル化を未だに真っ当と信じる日経新聞の読者が巷に多いことから、グローバル化はますます進むでしょう。となると、日本人がますます貧しくなり、最終的には、政府と財界は、他国、殊に、中国の属国になるようなことばかりをしでかすでありましょう。
今の日本の政治家や官僚は外国のエリートたちとつるんで、驕り高ぶり、庶民の過酷かつ悲惨な生活など自己責任と退けて、全く勉強も努力もしない連中であり、人に過度な要求を押し付けて平気なのであります。なんたって自分たちは、過酷な努力の末に今の地位がある、本気でそう思っているから、痛々しくて見てられません。その上、受験戦争に勝ち抜くために狡猾な振る舞いばかりしてきた彼らには心から許せる親友もない、虚栄心の塊みたいな人たちでしょうから、無責任にも、対処が面倒で自分の経歴に傷がつきそうな争いやトラブルを避けるのは明らかで、多国籍企業や他国のロビー活動や要望には唯々諾々に譲歩するしかしないでしょう。
 この通り、不安しかない日本の未来、努力するだけ徒労に終わって無駄であります。なので、私はますます古典の世界に惹きつけられ、そこにずっと引きこもってしまいたくなるのです。
 かつて、伊勢国松坂にて、門弟を全国から集め、学者として最高峰にいた本居宣長に、生意気にも論敵として刃向かい、国学を独自に研究し尽くした、大坂出身の奇人、上田秋成が放蕩三昧の末に書いた雨月物語の中に貧福論というのがあります。そこに出てくる黄金の精霊と自らを称する翁が、盛者必衰の理を述べるところで、豊臣家の没落を予言している場面がとても印象的です。
「秀吉は、百姓出身の僻みから奢ってしまって、富の蓄財に執着して、栄華を世間に見せびらかすのに急いでいるようだから、豊臣家は時期に滅ぶであろう。奢り高ぶる指導者の世は長く続いたためしはないのです。近い将来、万民が安穏に富み栄え、家運繫栄と世の泰平を謳歌する時代になるでしょう。」
と、その翁は語り、
最後に、
「日が照りつける中、百姓は家に帰る」
と、いう意味の漢詩を読んで、戦国乱世の時代に徳川家康公の天下を暗に予想していましたが、その通り、今、勝ち組にいる、エリートゆえ自分たちの無謬性に誤りがあったなどとは認めたくないという、秀吉が往年持っていたような驕りにより、彼らもまたやがて滅びるであろうと、私には思われて仕方のないことですが、しかし、どうも、世間に跋扈する、俗に言う頭のいい人たちは、優越凌駕の観念に縛られて、目には見えない宿命というものがまるで分からないようであります。
 

生きる歓びの喪失についてのこと。

 先日大阪であったカラオケパブの女性経営者殺害事件について、いろいろな憶測が飛び交っている。
 これを痴情の縺れといえば、一部分だけを見ればそうだろうとは思うものの、相手の好意にのみに一々左右される歪んだ自尊心に、いい歳をしたおっさんが散々苦しめられた挙句、相手を殺害することを厭わないという心理状態に陥ったというのが、あまりにも情けなく、極めて侘しさに満ちている。これが相思相愛の仲での縺れならば、弁護のしようもあったわけだが、この事件には一切そんなことはないのだから、殺された女性経営者の死は、身内の人間からすれば、悔やんでも悔やみきれず、怒りのやり場もなく、ただただ歯痒さだけが残るものだろう。
 ただ、いつの時代もこんなことはあったことだろうし、行きつけの飲み屋に足を運んで、愛想を振りまく若い姉ちゃんに会う以外に楽しみがない50代の親父などごまんといる。それについて特段問題視する意味などない。私が議論したいのはこんな他愛のないことではなく、人間がいとも簡単にある特定の人やものに執着して自滅していくその様子は、近代にあってはそう珍しいことではなく、寧ろ、これが自然だということである。
 昨今、多発しているように思えるストーカー犯罪をみれば、いかにしてこれを防ぐのかを年配のジャーナリストが心理学の用語を多用して訳知り顔に語っている。しかし、私には、近代という時代が、一旦動けば止まることは決してない自動機械の如く、情緒を潰しては、がむしゃらに効率と利益だけを人に求めるように仕向けていくこの猛烈な勢いにあっては、時間と共に、人間は情緒や幸福などを考える余裕を失い、如何にして自身の欲求を効率的かつ自身に有利な形で叶えるかにしか関心がなくなっているように見えて、ストーカー犯罪など法律や刑罰その他の設計主義的な議論で規制できる代物ではないかに思われる。法律とかルールとか作れば社会というものが健全に機能するという単純すぎる思考ばかりが蔓延ってる今、ほんとくだらない時代になったものだと痛感する。こんな設計主義的なことを言う者の多くが年配者と来ているのだから堪らない。すこしは人間の情緒なり生き方なり思想なりを振り返ってものを語って欲しいものだ。それこそ年長の功というものだろうに。これは日本の言論界に限った話ではない。ヨーロッパやアメリカでもこうした頭が偏屈な理論に冒されて専門用語ばかり多用する知識人は信じられないほど多く、庶民の暮らし向きなどに関心はなく、如何に自分が知的で成功しているように思われるに注意を専ら払っている。この度のコロナ騒動で明らかにしたように、テレビや新聞に出てくる専門家なる知識人など、単なるアドバルーンで、中身は空虚なものに過ぎないのだ。そう考えると、別に弁護するつもりなんてさらさらないけれど、彼らもまた人間らしさを失くした虚無の住民ともいえる。どれだけ予測を外し対策が失敗しても彼らは責任を取るどころか、ますます勢いづいて、人々の恐怖を過剰に煽っている。その姿のどこにも自責の念などほのめかすものがなく、あるのは傲慢さのみである。例えば東京五輪の開会式が単なるコンテンツを継ぎ接ぎしただけだったにも関わらず、その空虚さを目の当たりにしても、少しも胸を痛めない彼らの傲慢さがその証左といっていい。
「自分は努力でここまできたんだ。俺たちエリートたちのいうことを聞いてれば、いいんだよ、馬鹿な庶民は。」
 まさに善意と正義感の押し売り。馬鹿げた猿芝居の連続としか言いようがない。
 こんなところに生きる歓びなんてあろうものか。ヨーロッパやアメリカなどの先進国で多発するデモや暴動の多くはこれに起因している。専門人たるインテリたちの勝手な理論によってもたらされた生きる歓びの喪失に庶民は本気で怒っている。たしかに所得の減少とそれに伴う生活環境の悪化に関するものもあるが、それ以上に、彼らの怒りの矛先は、人間らしく時間と文化の中に慎ましく生きたいのに、そうはさせないインテリ連中へ向いているのだ。
 今回のストーカー事件も生きる歓びの喪失がもたらした悲劇という観点から見れば、もしかすると、解決の一助になる得るものがあるやもしれない。
 かつて吉原の遊女にうつつを抜かした庄屋のドラ息子が、その女の身請けをしたことを機に没落し始めて、最後は金魚の餌になるボウフラ売りとなって身を落とし、子供に着物の一枚を買い与えることができないまでの貧者として、今から吉原へと向かう友人たちと上野界隈で惨めな身なりで、邂逅するという話が江戸期にあったが、この時代は現代と違ってまだ思い定めた女と所帯を持つという生きる歓びがあり、まだ救われる部分があった。どれだけどん底に堕ちたとて人々は信仰心というものがあり、死後の世界の可能性さえも信じられていた。心中物を厳しく規制したとはいえ、幕府もそれを黙認していた部分があった。いくら人心を抑えようとて言論を規制するのは難しいと体制側も分かっていたに違いないし、政策によって人々の歓びや願望、そしてそれらを裏打ちする裏表のない素朴で実直な暮らしを徹底的に打ち壊せば、自身の体制が容易に崩壊しかねないと考えていたように思う。
 しかし、今や、所帯を持つことすら、年々に減少しつつある収入という面と効率性と利便性を重視するという退廃的文化の面で大きく憚れるのである。江戸期と現代を比較するまでもないが、文化的な開きが余りにも大きいというのは否めない。時代を経る毎に暮らし向きが悪くなっている中、誰が文化的な価値を創造したり評価したりして残そうとするのだろうか。しかも、幕府や帝国政府とは正反対に、現在の自公政権自らが人々の暮らしとこれまで培ってきた共同体を「グローバル化」「多様性」「民間の知恵の活用」「アウフヘーベン」「維新」などの美辞麗句で人々を騙してはぶっ壊している。
 意識の高いエリート層の無責任な「自己責任」と「自助」という言葉に生真面目に翻弄されて思い詰めて、その結果、生きる歓びを感ずることができなくなった人たちが、今後どのような振る舞いをするかは想像に難くない。最近起きた小田急線の事件はそうではないだろうか。自我のよりどころとする綿々とつづく故郷もなく孤立しているうえに、いくら働けども低賃金労働か、いくら会社に貢献しても決して自分のものにはならない功績とあらば、当然、誰しもがおかしくなる。それをどうすることもなく、人はスマートファンの画面にばかり見つめて無為な時間を過ごす。もはや日本は日本ではなくなった、建国より2680年来の時間の中から、現代ニッポンは完全に孤立し、そして蹂躙されていく。生きる歓び以前に生きること自体に不安が立ち込めている現代ニッポンにおいて、一体誰が他人のことなど考えようか。そして、自身で所帯を持って、並みの暮らしの中で感ずるであろう生きる歓びすらないとあれば、一体誰が自分以外の人を幸福にしようと考えるのだろうか。
 結論としてはかなり不適切で、どこか議論が曲折している感は否めないが、生きる歓びの喪失というものが、今になってようやく取り沙汰されている所得の減少とそれに伴う貨幣価値の不可避的な上昇に大きく関連しており、故にこのストーカーの親父もまたこれまで遊びで遣った金の見返りをこの若い女性経営者に求めたとしてもなんら不思議ではない。こんなことを平気の平左でやってしまうのは男としてどうかとは確かに思うが、現代人なんて所詮こんなものだ。絶えず見返りを要求する身勝手なものだ。こんなことは風俗狂いで自家撞着にすら気づかず自己欺瞞している男がかなりの割合でいることをみれば分かることで、なんら不可思議でもない。デフレという物価下落の圧力の中にあれば、欲得でしか勘定できない人間が指数関数的に増えても致し方ない。
 ただ、一方的な相手への想いを成し遂げるためだけに殺人を犯したという狂気にはどうも合点はいかない。もしかすると、これは「全ては脱構築され、全てが相対的な価値しかない」というポストモダンの影響かも知れないが、現代人の中には一方的で合点のいかない想いを自分なりに曲解し正当化してしまう術を持っている者がなかにはいて、今回、それが人を傷つけるといった形で露見しただけのことかもしれない。
 それ故に、悲しいかな、人というものをあまり無邪気に信用することは止そうと、私はこの事件を受けて思うてしまう。かつてあった生きる歓びを取り返されないことには、これからの未来もこの事件のように不意打ちに暗転させられる気がしてならない。生きる歓びを無くした現代人の心にはどこか狂気が潜んでいる、これが絶え間なく多くの不条理な悲劇を生むのだろう。

善人ぶる不孝者

 いつの世にも何かと面倒を見たり、苦言を申し立てたり、果ては非難めいたことを言い募ったりと、他人に対して何かせねば気が済まぬ人という者がある。 

 新型コロナウイルスのことを交えて話せば、マスクをせぬ者を自分勝手だのなんだのと頭ごなしに非難する者、或いはマスクをしている者をマスコミに洗脳されている愚か者と指差す者、大まかにこの二つに分かれる訳だが、そのいずれも互いの主張について理解しようともしていないし、そんな些細なことで正義感なぞ出している始末で実に見苦しい。
 今回のコロナウイルスの騒動の真の目的は、もう名前を出しても差し支えないからいうが、世界経済を牛耳る国際金融資本とジェノサイドをナチス以上の規模で平然と行う中国共産党という世界の覇権を握ろうとする強大な力を有する連中が、全世界の社会を統制するべく、人々を手っ取り早く分断することにあるのではないかと大いに疑われるため、マスクをするかしないかで身内で揉めている場合ではなく、寧ろ、今は互いの違いを素直に受け入れ、なんとかこの恐慌を早く終わらせる知恵を互いに出して共闘せねばならないのだ。そうでもしないと、経済は無論、そもそもあるはずだった人間関係全てが分断しかねない。人間関係こそ人間が生きる目的であり、そこに依拠せねばどんな人生も成立し得ない。つまり、これは人間がどういう人生を生きて死ぬかという、文明の危機でもある。新型コロナウイルス自体が脅威ではない、脅威なのは、家族、企業、行政、組合などの人間関係無しでは成立し得ない共同体の分断である。ーもっともこのことを表明している言論人が表立って居ないこと自体、既に文明は危機に瀕しているとしか言いようがないけれど。コロナが怖いから云々、そりゃそうかも知れないが、いつか人間は死ぬのだから、コロナごときでオロオロしてても仕方あるまい。ー

 そう言えば、昨年の夏くらいに、クラスターフェスだとて渋谷の中心地でコロナに恐れをなした人たちを愚弄しつつ、都知事の選挙活動した者があったが、私も彼に同意する部分が多いものの、彼の人を罵倒する態度には違和感と嫌悪感しかなく、全く共感するところが私にはなかった。あれだけの行動力があれば、もっと知性と柔軟性に富むことだって可能だった。言論の自由という観点からいえば、彼の「コロナは風邪」という言動自体はこの許容範囲内だが、異論を受け入れない尊大な姿勢では言論の自由を蔑ろにしていると思われても仕方のないことだ。つまり、どんな言論にせよ、対話や異論を受け入れる寛容さがなければ、たいそう立派なことを言い募っても、悲しいかな、なんの役にも立たない戯言に過ぎないわけだ。

 かつて大阪の府知事だった弁護士上がりもこれに然り。彼の意見に異議申し立てする者は悉く敵と見做し舌鋒鋭く論破していたかのように見えた。それで実に大人物という印象を世論に与えたものだが、大阪都構想という彼の幼稚な構想が、白日の下に晒してみれば、いかに利権の拡大を目論んだもので、いかに論理破綻していたかを思い出せば良い。尊大で異論を受け入れない姿勢の裏側に、常に幼稚で身勝手な願望が潜んでいるものである。仮にもし彼が本気で大阪を変えたいと願っていたとすれば、まさに正義の押し売り、常に正義が正しいとは限らないという実例を彼は示したことになるわけだ。

 コロナ騒ぎが明らかにしたことをまとめると、マスクの有無ごとき、いちいち些細なことで正義感をひけらかす勿れということだ。正義感を出すのは、人を裏切らなくてはならないような本当に切羽詰まった場合にだけにして、今は鉾に仕舞いなはれという。このまま、正義感から互いの主張を言い募って反目し合えば、この騒ぎは5〜10年、続きかねない。この調子で互いがいがみ合うことが続けば、文明は没落へと足を一歩進めることになり、徐々に全てが元に戻すことが出来なくなっていく。

 人々の分断こそ、イギリスやオランダなどの列強諸国が植民地を支配と搾取したときの有効手段だったということを最後に書いておこう。人間、一生涯の経験則からでは妙案などとても生まれず、賢者に倣って歴史から教訓を学ぶことこそ、本来危機に対する姿勢ではあるまいか。あらあらかしこ。

 

コロ、コロ、コロナ

 日が暮れると、わが街のテレビ塔は、閑散とした街の寂しげな雰囲気とは対照的に、新型コロナウイルス感染拡大を警告するべく、赤や黄、白などの派手な色に彩られる。4月下旬の第一波、7月下旬の第二波の感染拡大を阻止すべく発布された緊急事態宣言が解除されてしばらく経っても、昼夜を問わず、人々は生真面目にマスクをして、建物に入るたびに積極的に入り口に設置されている消毒液で手指消毒してる。
 ものぐさで軽佻浮薄な私にはこれが異様な光景のように思えてならず、マスクなんかしないまま、町を歩き回っては退屈を持て余す。マスクをせずに出歩くことすら異常と思われかねない、これ自体、何やら作為的なものに、多くの人たちが心理的に操作されている印象を受ける。つまり、コロナが長期化すればするほど、この国が経済的に衰退している原因を、デフレにも関わらず、消費増税と防災やインフラ建設などの公共事業の大幅な削減といった緊縮財政を推し進めた政府の失政ではなく、コロナにすり替えることが容易になるからこそ、マスコミやネットでやたらと、
「コロナは怖い」「コロナは後遺症も馬鹿にならない」「若い人でもコロナに感染したらえらい目に遭う」などと、極めて稀な症例ですら大袈裟に騒ぎ立てているのではないかと、私には思えて仕方ないのだ。
 イギリスの工業都市マンチェスター出身で、若い頃にサッチャー政権の緊縮財政で散々痛めつけられてきたポップスターたちが、かつての労働者階級の感覚で、「都市のロックダウンはいらない、マスクもいらない、ワクチンなんて論外だ」と、ツイートして、ヨーロッパでは大きな話題にはなっていたが、私も彼らの意見に賛同する。
 このコロナ騒ぎの本質は、病気の脅威よりも、ディープステートの政治的かつ経済的な利益のためのもので、ある種の陰謀が背後にあるのは確実であろう。それはこのショックを利用して、更なる利益追求を行う勢力に都合のいい政策を実行に移すというものだ。スマートシティ法案はその一例といっていい。
 全ての情報をネットで共有して行政と企業が人々の生活を監視下に置く。ー今の中国社会のように、今の日本社会を改造する。例えば、現政権の批判なんかすれば、その翌日、公安警察が自宅にやってきて、人は拘束され、拷問の末、洗脳される。ー中国では、国家主席習近平の写真に墨で落書きをしたものをネットで公開して、中国共産党を批判した女性が、公安に逮捕された末、精神障害になるまで拷問を受けたことが、米国を拠点にする中華系メディアに暴露された。ーこのような社会を容易にするのが、スマートシティ法案である。
 コロナ騒ぎでリモートワークが推進されているが、その実際のところは、日本企業の機密情報を外資系のIT企業、主に中国人民解放軍がバックにあるIT企業が盗むことにあるのはもちろんのことだが、それ以上に、すべての人間関係をネット上で監視下に置くことで、日本の現政権と中国共産党英米のグローバル企業などの体制側に都合の悪い連中を排除することが目的だろう。作家ジョージオーウェル全体主義の台頭を危惧して書いた「1984」の世界、この実現がスマートシティ法で可能となる。この危険性は、水道の民営化と種子法廃止といった多国籍企業の利益にしかならない法案と同様に、コロナ騒ぎで無視されていた。参事便乗型資本主義がこれほど簡単な国は日本以外にあるであろうか。
 個人的な意見を述べるならば、このままいくと、間違いなく、日本は中国の属国になるであろう。自民党政権の中枢にいるのは、ほとんどが中国共産党の息がかかった連中であり、アメリカやヨーロッパで個人情報漏洩の危険性が指摘されているtiktokがこの日本では放置されて、今でも地上波のCMで延々と宣伝されていることからも、政治的にも経済的にも中国共産党にマスコミや政治家などの日本の権力筋がいかに侵食されているかは一目瞭然であろう。米国商務省のシンクタンクCSIS自民党の幹事長と内閣首相補佐官中共の影響下にあると指摘されてもなお、いまだに彼らが日本の権力の中枢にいることから、中国の日本政府への影響がいかに強いことが分かる。
 日米同盟強化を謳いつつも、経済界の後押しもあって、中共に忖度し屈服した日本のどっちつかずの態度では、東アジアの安全保障を担うアメリカが日本人など見放すことは誰が見ても明らかだ。

 それでもこの国の自称保守派と来たら、自民党が推進する構造改革グローバル化政策、親中体制など、徹底的に自滅的な政策をを礼賛するのだから、もう訳がわからない。まさに認知的不協和というものを目の前で見ている気がしてならない。 
「安倍さんなら、きっと、いいことをしているはずだ」
 事実は憲政史上、最も実質賃金を下げ、少子化を促進させて、デフレを長期化させたのが、安倍政権なのだが…。この国ではまともな批評家なり言論人なりは地下に潜るしかなさそうだ。
 ただ、日本人としてこのコロナ騒ぎで歓迎することもある。流通路線から中国を排除する口実ができたこと。そして世界の国々の国境を引き下げてヒト•モノ•金の移動の自由を是としてきたグローバリズムの欺瞞が明るみに出たことは評価すべきところだろう。
 それでも新聞紙面やテレビなどでは未だにグローバル化は礼賛され、水道や農業をはじめとする一次産業の協同組合などの公的資産は民営化され外資に奪われていく、あらゆる構造改革は推進される。そして日本の政治家は、目の前に広がる日本人の貧困を無視してでも国際金融資本に忖度せねば、当選すらしないし、それどころか、彼らに配慮しなくてはその命すら危うい状況だ。
 果たしてこれでどこに言論の自由があろうか?

 こんなにも閉塞感に覆われているのに、人々は、楽しさしかない底の浅い享楽に興じては、SNSという架空の世界に耽溺して見せかけの充実を装う。時折、政治的な態度を示すとなれば、大阪都構想という明らかに詐欺としかいいようのない政策への小児病的な賛同というわけだからさすがの私も笑えない。
 さて、この危機的な状態に対して、物書きの端くれで、毎日上司のムカつく顔を見ながら、卑しく小銭稼ぎをする私に何ができるであろうかと考えてみるのだが、何も妙案は浮かばない。ただ確かなのは、昔なら当たり前だった幸福が遠い夢物語となっていくことだろう。つまりこれまで以上に日本人は精神的にも肉体的にも物質的にも貧しくなっていく。それでも私は生きるしかないし、この状況の中で足掻くより他はない。
 未来に絶望しかないと分かってても生きる、これが私が生きている今の時代、このことに気づいている人はどれくらい居ることだろう。
 そして、今日もこの国では大手新聞の一面を飾るのは、デジタル化されて非人間的で無機的な世界への無邪気な憧憬ばかりで、一切未来への危惧なるものは掲載されておらず、飽きもせずに「コロナは怖い」と、感染者数を大きな見出しで書いては読者を不用意に煽っている。

世間胸算用

 名古屋の繁華街の近くに住んでいると、人間の本質、つまり人間の欲深さ、嫉妬深さ、劣等感、癒しきれない孤独感といったものを垣間見る機会が特段多く、現代のありふれた文学作品や音楽などに見られる自我の誇示というものがいかにくだらないもので、なんら役に立たないことがはっきりわかってくる。
 元禄期、商人ばかりの大阪の場末に住んでいた井原西鶴も、人間の徳に信頼など寄せている節などなく、専ら、金子の嵩、地名、手持ちの装飾品、髪型、着物の模様、帯の太さとその柄など、やけに人の外見、財産状況、住まいといった具体的なものを出来る限り描いているように見受けられる。目でみられるものしか信じず、そこからでしか人間の本質が垣間見られないのだという余りにも徹底的で冷酷な現実主義路線には、町に住む人間として私も納得のいくものがある。
 所詮、人間は抗い難い欲にはなす術もなく、本能のままに振る舞うのは当然で、あれよあれよと堕落していくものだ。抗い難い欲を抑えることに成功することなんてまず稀だ。
 井原西鶴の作品にはこうした視点から描いた作品が多い。当時でも彼の作品が明らかに異質だったのは言うまでもない。この視点に立脚すれば、世間とは結局金次第ということが自ずと分かるものだ。人間の卑しい本質を浮き彫りにされてしまう、その恐れのために、彼を異端だのおらんだだのといって当時の人たちは蔑んだのだろう。
 誰だってチヤホヤされたいし、誰だって愛されたいし、誰だって失敗なんてしたくないし、誰だって貧乏になんてなりたくない。なんと人間は身勝手なものだろう。
 こういった人間の甘えきった卑しい本質を古代の昔から為政者は分かっていた。だからこそ制度、法体系、道徳、経済体制、教育制度、宗教などといったものを編み出して秩序だった社会の構築に努めてきた。これが文明社会ではなかろうか。
 それを理解もせず、人間の美徳というものに期待して、今の政治家や経営者が政策や方針を立案しているとしたら、たわけとしかいいようがない。
 生活がある一定の水準で安定してなければ、到底、勤勉性なんて期待できるわけはないので、生活が不安定な派遣労働者は仕事に忠誠を示すことなくだらだら仕事をして時給を出来る限り多く稼ぐようになる。そして、ミスを連発すれば、「はっ?知らね?」と澄まし顔。その結果、企業の生産性は落ちていく。それを咎めて人間の成長を馬鹿みたいに期待する経営者は、「今の若者はなっとらん」と憤慨し、発展途上国の若者を持ち上げる。全く馬鹿げた茶番である。ただ、日本人の方がデフレで外国人よりも人件費が高くつくだけなのに、精神面も含めて外国人を褒めるのだから堪ったものではない。
 これから先、安定して働いて結婚したり家庭を持ったりすることの出来る余裕すら労働者に与えないで、若者を過度に責める経営者の態度は、実に子供の無い物ねだりに過ぎない。人に期待するのであれば、裏切られることがあるにせよ、それなりの対価を支払わなくてはならないという常識すら世の大人たちは持ち合わせていないのだ。
 こうした世代間の意思疎通がままならぬ状況を放置しておけば、自ずと分かることであるが、日本の技術と産業は衰退するだろう。一度失われたものを取り返すことは容易ではない。失ってからではもう手遅れなのだ。
 彼ら経営者は努力さえすれば生活が保障されてきた時代の名残を引きずって、手前味噌な考えで恵まれた自分のことを引き合いに出して若者を一方的に責めて、更には年金をせしめようとしている。長年かけてきた技術やノウハウはどんどんと外国人に取られていくのも、
「今の若者に、こんな仕事をさせても金額が高くつくだけだ、だからいっそ、海外に拠点を移して…」と、正当化している。
 誰の目から見ても、この経営者の態度は、「ここまでのご都合主義は歴史上、まれに見るものだ」と言われても仕方のないことだろう。
 そして、近い将来、日本人の女の子の中には、自宅の軒先に座って、道行く外国人観光客を手招きして、恐らく、耐え難い苦痛をその顔に浮かべる者もあろう。
「親父が馬鹿だったおかげで、かつて人件費が安いと馬鹿にしてこき使ってた外国人に、こうして媚びを売らねば飯すらままならないってのに。このクソ親父、ふざけやがって」
 ある娘は酒焼けした声を噛み殺しながら愚痴っぽくなる。
 家の奥からは彼女の父親が咳き込む声が聞こえ、生活のために色を売る女の哀れさが一層、目に染みる。
「俺のどこが悪いんや?」
 中風で寝付き、先般の感染症で咳き込む親父は娘の身体で飯を食い、娘の介助で糞尿の始末がついているのに、なおも、自分のしでかしたことに気づいていない。
 かつて、彼は、大きな幹線道路沿いに、自動車部品の洗浄装置を製造する大きな工場を持っていたが、低賃金で雇っていた若者が癪やからと小馬鹿にし、若い外国人を日本人よりはマシだとて優遇した結果、そこで培われたノウハウと技術は外資系企業に取られた挙句、経営からも外された。

 運の悪いことは続くもので、更にその直後にやり直しの意味で自分で、設立した会社もすぐに運転資金も底をついてしまった。この顛末で無一文になったことを人に後ろ指指されたくないと、卑しさが頭を上げてきて、彼は当面の金欲しさに、空手形を振り出したが、破産を計画したことが仕入れ先などの債権者に勘繰られ、顰蹙を買い、ますます商売もままならなくなり没落したのだった。
 今では大阪は神崎川沿いの場末、詫びしく佇む長屋の一部屋を借りて寝たきりの身。かつては大手の自動車メーカーと取引していたことを娘との会話で引き合いに出したりもする。娘は、父親が何度もしてくる話に微笑みながらも、内心、「早よ、迎えが来うへんかいや」と恨み節。
 娘がまだこうして面倒を見てくれるうちはいいかもしれぬ。ただ、彼女の肚では、愛想を尽かしてここを出ていけば、保護責任者遺棄致死となり刑事事件に発展しかねず、それを恐れて耐えているだけ。彼女の胆力が本人にもいつまで続くか分からず、先行きは水のように澄み切ったものとはとても言い難い。
 もうこの親父には、既に若者を小馬鹿にして精神論を述べる資格なぞなく、せめて、その無駄に伸びた髪とひげを剃り落とし、仏道にでも入って自身を振り返ってもよかろうに、まだ世間に未練があると見え、見苦しいこと、この上なし。
 これが私が描こうとする世間胸算用の一幕であります。