総選挙に関すること。

総選挙も終わったので日本の貧困問題について改めて考察する。
選挙結果からして、岸田内閣では、この問題の解決はまず難しいだろう。もうこれは確定事項だ。報道で見る限り、日本が良くなることは、これから30年間はとても期待できないでしょう。
 
日本人の実質賃金が上昇するのに大きな足枷となっている、消費税の減税あるいは廃止と、法的根拠もなく年々支払額が増えていく保険料や年金などの社会保障負担の減免について、この政権は一切議論せずに、「新しい資本主義」と連呼しつつも、これまで同様、空虚で一部の既得権を新たに生むだけに過ぎない、竹中・アトキンソン路線たる新自由主義グローバル化路線/財務省主導の増税緊縮財政路線へと舵を切ったのだから。
要は、目指す理想はやたらと高尚で耳障りはいいものの、そこに至るまでの現実的な距離感なり時間なりを測ることをせず、惰性でこれまでのやり方に依存しているように見える。(経路依存性)またここで新規に物事を変えることでこれまでのことが否定されてしまうことを恐れているようにも見える。(センメルベイス反射)
この国はあらゆる面で堕落しきった。戦後の混乱期がもっと長引いていたらよかったと思う。もっと本質的に、もっと具体的に、日本人が明治以来たった80年の間で、どれほど近代文明に侵され堕落してきたか、そしてそこからの転換をいかにするかを、当時であれば、敗戦の心理的動揺が生々しいゆえに、大いに考えたに違いなかったのに。この事なしに日本文明の復活はないではなかろうか。真剣になれきれなかったツケが、戦後から75年経った今、経済的・心理的な不安と戦慄、絶望となって、現代の、特に40代以下の若年層に不条理に襲いかかっている。
 
岸田政権発足当初掲げていた、「令和の所得倍増」というからには、総所得に占める税と社会保障の負担に関する問題を避けては通れまい。それにも関わらず、財務省かそれとも経団連か、或いは経済同友会かは知らぬが、どこかしらに慮って、税と社会保険料の異様に重い負担を減らすことを議論することなしに財界やグローバリストが提唱したまんまの政策を実行する気なのだろう。
国家が本来の役割(公助)を放棄し、これまで温存していた中間共同体(共助)を破壊し、そして、国民にありとあらゆる結果を自己責任と称して、たとえ国民が死に至ることがあっても放置するのだろう。(自助の強調)
このままデフレを放置して、こんな浮ついた議論ばかりで物事が決定されると、これまで営々と培ってきた生産力、すなわち、供給力が、確実に毀損させていくことになる。デフレの今、民間では、設備投資したり人を新たに雇用したりしても何ら便益をもたらさない。経済合理性から見て、いつまでも投資だの雇用だのに固執する必要はないのだ。と、なると、誰がどう見ても、その生産能力を維持する労力は無駄のように思われて、最終的には棄損されていき、消滅する。
 このデフレの恐ろしさが体制側はまだ分からないのだろう。
 これはすなわち、経済の自死を意味する。もし世界経済の混乱その他で、日本に海外から食糧や医薬品、原油などの生活必需品が入らなくなった場合には、デフレでその生産能力が不足或いは皆無になっているために、ことに輸入に頼っている分野のものであれば、その物価は急激に上がり、日本人の多くはそれに対応しきれず、必然的に飢えることになるのだ。
 金だけでは生活の安全は変えない。金以外にも、国家権力と生産能力、これらが揃ってこそ、生活の安全なのだ。これを知らない人があまりにも多い。
 以上のことから、デフレがもたらす悪影響は、単に物価下落に伴う賃金下降のみならず、国の生産能力を長期間にわたって著しく毀損した結果、その生産能力が皆無となったが故に、(たとえグローバル化でそれを補填していたとしても、)常に年々高くなる物資を海外から購入せざるを得ない状態になれば、供給能力不足による強制的なインフレ、すなわち、スタグフレーションー海外からの物資に頼れば頼るほど、賃金下落と物価高騰の圧力が強くなる。従って給与や所得の約40%が税と社会保障費で取られて、ただでさえ可処分所得が少ないところへ、こんな外からの圧力がかかれば、ますます生活困窮者が増えるばかりで、社会は騒乱状態となるーに陥っていく。
 これを食い止めるには、さてどうすればいいのかといえば、日本の場合には、まずは国内物価下落、すなわちデフレを脱却することしかない。
ところが、この国では財務省がマスコミ、学会、財界を通じて広められた財政破綻の嘘話が罷り通っているため、赤字国債発行―政府と日銀の統合政府の債権たる日本円の市場供給による総需要不足の単なる穴埋め―が出来ず、プライマリーバランス黒字化なる荒唐無稽なものが正当なもののように信じられてしまうのだ。
その上、政治家も財界人も国ではどうすることもできないと途方に暮れ、国民生活を犠牲にしてでも、TPPやRCEP、EPAなどの国内法よりも優位に立つ自由貿易協定をやたらと結ぶことはやむを得ないことのように思いこむ。
それに合わせて、構造改革を連呼して、水道などのインフラの民営化による国内資産の外資への売却を進めて、国内の法律がどんどん改悪されていく。競争の激化による弱者の淘汰、強制的需要削減がこの本質である。
またグローバル化は、デフレをさらに悪化させる。供給能力を他国に補填させる意味があるゆえに、供給量だけが一方的に上がるので、ますます需要不足は深刻化する。
即ち、構造改革グローバル化、ともに同時に推進すれば、デフレは一層加速する方向に働く。
 日本維新の会小泉政権と第二次安倍政権が、推進してきた政治とは、実質的に国民の貧困化を推進し、生活環境を悪化させてきたのとほぼ同じであり、それを国際協調だの国際競争力強化だのと、美辞麗句で世間の目を欺いてきたにすぎない。
 
財務省が推進しているプライマリーバランス黒字化とは、政府の赤字=民間の黒字の縮小であり、結果的には民間の所得を税金や保険料で政府に召し上げることで、政府の黒字を目的としたものであるから、従って、民間の所得は減るのは自明の理である。これは民間の黒字が減れば、その反対側にある、政府の赤字額が減るためで、貨幣の原理原則からいって当たり前のことである。
貨幣とは、手形であろうが小切手であろうが、日本銀行券(紙幣)であろうが、誰かが振りだした借用証書であり、赤字と黒字の関係は常に対照的になる。だれかが負債を抱えないと貨幣は新たに創出されず、その担保は、日本円と日本国債の場合では、国内の供給能力=国内の需要に対応し得る生産能力である。(お金で買えるものが身の回りに十分にある状態が維持されることが前提条件になる)
新規国債自体、政府が市中銀行からわざわざ国民の預金を借りてきて作られるものではなく、中央銀行である日銀か市中銀行が、国債と引き換えに、政府口座にある日銀当座預金の通帳データに金額の数字を書くだけで、0から作られる。つまり日本円の発行は、日本国内の供給能力の範囲内(デフレギャップの範囲内)であれば、いくら発行してもなんら問題がなく、その際気にするのは、額面ではなく、供給と需要のバランスを示唆するインフレ率である。総需要の不足で陥っているデフレの今、政府による財政出動こそが、日本のありとあらゆる問題にもっとも適した解決策となる。
 これらのことを踏まえて考えていくと、どの政党の政策がまともかははっきりしてくる。
明らかにダメなのは、大阪でパソナと組んで正規公務員の数を減らし続け、行政サービスを著しく低下させても、未だに、改革が足りないなどといって、馬鹿にみたいに「身を切る改革」を連呼して、その非を認めない日本維新の会、そして、未だにプライマリーバランス黒字化目標に固辞して、30年間、日本人の実質賃金を上げられなかった、与党自民党公明党である。
 その逆、つまり、赤字国債発行による生活補填と老朽化したインフラ整備、農家戸別補償による国内の食糧供給能力の強化、消費税の廃止または減税、高圧経済の達成などを掲げる野党の、国民民主党とれいわ新選組がもっとも経済政策において優れていることになる。
 今回の総選挙は、新自由主義グローバル化からの転換とデフレ脱却、日本の実質賃金を如何にして政治が上げていくかが、争点になるはずだったが、しかし与野党の主要な人たちは互いに罵詈雑言を浴びせるばかりで、困窮化する国民生活など関心が無いようだった。
 これで日本がよくなる見込みなど、普通の頭をしていれば、無いと思い、誰も選挙に行こうとはしないであろう。
 それに、まずデフレ脱却なくして、尖閣がどうだの、竹島がどうだの、中国による北海道の土地の買収がどうだの、外資による日本企業の資本買収がまずいだの、原発再稼働だの、と、いっても、何も始まらないし、ましてや生活が困窮している人たちに、どれだけ、清く正しく日本のことを考えろなどと言っても、そんなことを考える余裕がまずない。そんな空虚な精神論的な言葉は、彼らにとってはかなり残酷な上に、結果的に無駄口になるどころか、ただ反感を招き、社会の分断を進めていくのみで、ますます、他国、とりわけ中国の属国になる隙を自ら作るだけである。
 自民公明の与党の誤った経済政策によって、目先の金欲しさに、先祖代々引き継いだ土地や技術を高値で買ってくれる中国などの海外の資本を手放しで貧困化した日本人が歓迎するようなことになる前にやることは、まず、政府がやるべきは、デフレ脱却による日本の底辺層の底上げに他ならないのではないか。それが達成されて初めて、より本質的な防衛や安全保障、外交の議論に移れるのではないか、そんな気がしてならない。
 このまま日本人が分断された状態では、改憲議論にせよ、安保法案にせよ、原発にせよ、どうあがいても議論が中途半端なものに終わり、確実に将来に禍根を残すことになるのは確実である。
 貧困問題がこれだけ深刻で真剣に議論せねばならないのは、単に物質的なことではなく、人間の本来あるべき生きる歓びを奪い、未来に引き継ぐべきものを途絶えさせる危険があることと、これの常態化による日本社会の分断と文化の荒廃が、圧倒的な虚無を育み、最後には、日本人が誰かに支配されることを望むようになっていくためである。
人間は弱い、能動的な生き方をして自分で責任を取るよりも誰かの指示や命令で生きる安易な選択をするのが常である。そのほうが責任もないし、自分で考えなくてもいい、ただ命令や規範に従えば、支配者の保護下で安寧に暮らせるのだ。全体主義はいつだって人々を抑圧した結果のものではなく、人々が虚無感に打ちひしがれて、従うべき、抑圧的な指導者を熱烈に求めた結果に過ぎない。ナチスにしたって、選挙によって選ばれたし、中国共産党にしたって、毛沢東の権力闘争に狂喜乱舞した若者がその権力基盤を支えたのだ。
 
最近、テレビのニュース番組を久しぶりに見たのだが、ほんと反吐が出るほどひどい有り様だった。
 低俗で頓珍漢なことばかり言い募る国会議員とそれにしたり顔でうなずく年配の解説委員、偉そうな顔している割に言うことが浅薄すぎる金融アナリスト、そして、見栄えだけはいい若い女子アナたちが生真面目な顔して、経済関連のニュース番組を進行していた。番組の途中、日本がなぜここまで成長しないのかというテーマになった時、すでに使い古されている外来語を多用して支離滅裂な理論が展開されていた。出演者皆、恥ずかしげもなく、訳知り顔でこの論理展開には悦にいっている様子。最後に若い女子アナが視聴者に向かって、
「財源について真剣に議論すべきかと思います。それに財政問題は無視できません。これからの成長には抜本的な改革が必要かと思います。」
と、まるで本を読む調子の声で視聴者をまるで小馬鹿にするように呼びかけていたのを見て、この日本は没落する運命にあるのだなとつくづく思うものだ。いつまで人々に恐怖を煽れば彼らエリート層は満足なのだろうかと。
 
 
 
 
 先日、月刊誌文藝春秋に、大和魂から財政破綻を危惧するお馬鹿な私的論文を寄稿した矢野財務次官を引き合いに出してマスコミが財政破綻を未だに煽っていることから、自公政権増税路線•構造改革路線のまま続くことを予測していましたが、全くその通りでありました。そして、グローバル化を未だに真っ当と信じる日経新聞の読者が巷に多いことから、グローバル化はますます進むでしょう。となると、日本人がますます貧しくなり、最終的には、政府と財界は、他国、殊に、中国の属国になるようなことばかりをしでかすでありましょう。
今の日本の政治家や官僚は外国のエリートたちとつるんで、驕り高ぶり、庶民の過酷かつ悲惨な生活など自己責任と退けて、全く勉強も努力もしない連中であり、人に過度な要求を押し付けて平気なのであります。なんたって自分たちは、過酷な努力の末に今の地位がある、本気でそう思っているから、痛々しくて見てられません。その上、受験戦争に勝ち抜くために狡猾な振る舞いばかりしてきた彼らには心から許せる親友もない、虚栄心の塊みたいな人たちでしょうから、無責任にも、対処が面倒で自分の経歴に傷がつきそうな争いやトラブルを避けるのは明らかで、多国籍企業や他国のロビー活動や要望には唯々諾々に譲歩するしかしないでしょう。
 この通り、不安しかない日本の未来、努力するだけ徒労に終わって無駄であります。なので、私はますます古典の世界に惹きつけられ、そこにずっと引きこもってしまいたくなるのです。
 かつて、伊勢国松坂にて、門弟を全国から集め、学者として最高峰にいた本居宣長に、生意気にも論敵として刃向かい、国学を独自に研究し尽くした、大坂出身の奇人、上田秋成が放蕩三昧の末に書いた雨月物語の中に貧福論というのがあります。そこに出てくる黄金の精霊と自らを称する翁が、盛者必衰の理を述べるところで、豊臣家の没落を予言している場面がとても印象的です。
「秀吉は、百姓出身の僻みから奢ってしまって、富の蓄財に執着して、栄華を世間に見せびらかすのに急いでいるようだから、豊臣家は時期に滅ぶであろう。奢り高ぶる指導者の世は長く続いたためしはないのです。近い将来、万民が安穏に富み栄え、家運繫栄と世の泰平を謳歌する時代になるでしょう。」
と、その翁は語り、
最後に、
「日が照りつける中、百姓は家に帰る」
と、いう意味の漢詩を読んで、戦国乱世の時代に徳川家康公の天下を暗に予想していましたが、その通り、今、勝ち組にいる、エリートゆえ自分たちの無謬性に誤りがあったなどとは認めたくないという、秀吉が往年持っていたような驕りにより、彼らもまたやがて滅びるであろうと、私には思われて仕方のないことですが、しかし、どうも、世間に跋扈する、俗に言う頭のいい人たちは、優越凌駕の観念に縛られて、目には見えない宿命というものがまるで分からないようであります。