善人ぶる不孝者

 いつの世にも何かと面倒を見たり、苦言を申し立てたり、果ては非難めいたことを言い募ったりと、他人に対して何かせねば気が済まぬ人という者がある。 

 新型コロナウイルスのことを交えて話せば、マスクをせぬ者を自分勝手だのなんだのと頭ごなしに非難する者、或いはマスクをしている者をマスコミに洗脳されている愚か者と指差す者、大まかにこの二つに分かれる訳だが、そのいずれも互いの主張について理解しようともしていないし、そんな些細なことで正義感なぞ出している始末で実に見苦しい。
 今回のコロナウイルスの騒動の真の目的は、もう名前を出しても差し支えないからいうが、世界経済を牛耳る国際金融資本とジェノサイドをナチス以上の規模で平然と行う中国共産党という世界の覇権を握ろうとする強大な力を有する連中が、全世界の社会を統制するべく、人々を手っ取り早く分断することにあるのではないかと大いに疑われるため、マスクをするかしないかで身内で揉めている場合ではなく、寧ろ、今は互いの違いを素直に受け入れ、なんとかこの恐慌を早く終わらせる知恵を互いに出して共闘せねばならないのだ。そうでもしないと、経済は無論、そもそもあるはずだった人間関係全てが分断しかねない。人間関係こそ人間が生きる目的であり、そこに依拠せねばどんな人生も成立し得ない。つまり、これは人間がどういう人生を生きて死ぬかという、文明の危機でもある。新型コロナウイルス自体が脅威ではない、脅威なのは、家族、企業、行政、組合などの人間関係無しでは成立し得ない共同体の分断である。ーもっともこのことを表明している言論人が表立って居ないこと自体、既に文明は危機に瀕しているとしか言いようがないけれど。コロナが怖いから云々、そりゃそうかも知れないが、いつか人間は死ぬのだから、コロナごときでオロオロしてても仕方あるまい。ー

 そう言えば、昨年の夏くらいに、クラスターフェスだとて渋谷の中心地でコロナに恐れをなした人たちを愚弄しつつ、都知事の選挙活動した者があったが、私も彼に同意する部分が多いものの、彼の人を罵倒する態度には違和感と嫌悪感しかなく、全く共感するところが私にはなかった。あれだけの行動力があれば、もっと知性と柔軟性に富むことだって可能だった。言論の自由という観点からいえば、彼の「コロナは風邪」という言動自体はこの許容範囲内だが、異論を受け入れない尊大な姿勢では言論の自由を蔑ろにしていると思われても仕方のないことだ。つまり、どんな言論にせよ、対話や異論を受け入れる寛容さがなければ、たいそう立派なことを言い募っても、悲しいかな、なんの役にも立たない戯言に過ぎないわけだ。

 かつて大阪の府知事だった弁護士上がりもこれに然り。彼の意見に異議申し立てする者は悉く敵と見做し舌鋒鋭く論破していたかのように見えた。それで実に大人物という印象を世論に与えたものだが、大阪都構想という彼の幼稚な構想が、白日の下に晒してみれば、いかに利権の拡大を目論んだもので、いかに論理破綻していたかを思い出せば良い。尊大で異論を受け入れない姿勢の裏側に、常に幼稚で身勝手な願望が潜んでいるものである。仮にもし彼が本気で大阪を変えたいと願っていたとすれば、まさに正義の押し売り、常に正義が正しいとは限らないという実例を彼は示したことになるわけだ。

 コロナ騒ぎが明らかにしたことをまとめると、マスクの有無ごとき、いちいち些細なことで正義感をひけらかす勿れということだ。正義感を出すのは、人を裏切らなくてはならないような本当に切羽詰まった場合にだけにして、今は鉾に仕舞いなはれという。このまま、正義感から互いの主張を言い募って反目し合えば、この騒ぎは5〜10年、続きかねない。この調子で互いがいがみ合うことが続けば、文明は没落へと足を一歩進めることになり、徐々に全てが元に戻すことが出来なくなっていく。

 人々の分断こそ、イギリスやオランダなどの列強諸国が植民地を支配と搾取したときの有効手段だったということを最後に書いておこう。人間、一生涯の経験則からでは妙案などとても生まれず、賢者に倣って歴史から教訓を学ぶことこそ、本来危機に対する姿勢ではあるまいか。あらあらかしこ。