自己責任論についてのこと

 昨年は殊更、コロナ禍という、誰も責めることなどとでもできない緊急事態にも関わらず、自分を責め続け苦しんでいる人たちが多いように思われた。日本の最高権力者であり、日本人の生活を預かる総理大臣ですら、「自助」を強調して、国民の困窮に手を差し伸ばすことはほとんどなかったのだ。
 時折、飲んだ帰りの夜明け前あたり、公園で見かける炊き出しの列に、若い人がちらほら並んでいるのが目立つ様になってきた。いよいよこの自己責任論が行き詰まり、いくら言い繕うにもこればかりは正当化できるものではないことが明らかになった。というのも、いくら頑張っても、いくら努力しても、一旦、レールから逸れた人間には、いつまで経っても低賃金労働しか当てがなく、失敗は許されない。なんと冷酷な世界だ。これをみて、まともな環境の一つも用意できない老害どもは、いくら頑張っても報われず冷飯ばかり食わされている人たちに、職があるだけの薄給の見込みしかない境遇に満足しろとでも言いたいのか?ー彼らの言葉が悉く浮薄。彼らの好きな音楽や映画、文学をみれば、分かる。
 例えば、村上春樹。彼は、グズグズしていつまでも煮え切らないニューヨークの町でたむろしていた青年たちが、自国アメリカという国の宿命たる「自己不在」の本質から目を逸らすために、がむしゃらになって拵えた派手で薄っぺらい貸衣装に憧れている痛いおっさんだろ?彼の文章は不協和音、甚だしく、いかに自身を着飾ることに苦心しているのかが滲み出ている。彼はいつだって本質から逃げてばかりで積み重なる虚無に鈍感だ。これが日本を代表する作家かよ?ー
 どこが自由で平等で博愛だ?
 SDGsの一番目にある「貧困を無くそう」という標語が至る所で声高に叫ばれている一方で、エリートどもは、明日の飯にすら買うに困っているワーキングプアの人たちや幾度となく発出される緊急事態宣言で経営が疲弊していく飲食店に勤める従業員たちのことなどには一切関心の目を向けたくないようで、
「コロナ感染を防ぐためにマスクをしてワクチンを打って」とか、
「今の日本経済に活気がないのは、イノベーションがないからだ、そのためにはまだ構造改革が必要だ」とか、したり顔で言うてたりする。これはまさに偽善だな。
 こちら側の、いわゆる市井の、もっと具体的に言えば、来年こそはいい年になる事を祈ってやまない、40代以下、或いは年収400万以下の層にいる人間の心には、全く響かない様なことばかり言い募り、彼らエリートどもは、茶を濁しているとしか思えない。
 昼飯は300円以内に済ませ、夕飯はスーパーの惣菜コーナーで何とか買えた見切り品という暮らしを18の頃から続けている私にとって、テレビや新聞で扱うことなどまるで次元の違うところの出来事の様に映る。
 多くの人々は理念のためには生きていない、ただ、平凡に、普通に、安定的に、幾分今後のことに煩わされることなく暮らしていければよかったはずなのに、しょっちゅう、コロナ騒ぎだの移民だの補助金だの税金だのと生活が掻き乱されて、挙げ句の果てには職場を変えることを余儀なくされたり、或いは身内の中で互いに半目する羽目になっている。多くの人たちがわずかな日銭のために苦心惨憺していると彼らインテリたちは分からないのだろうか?
 コロナ禍でこの閉塞した状況がますます顕在化したにも関わらず、ほとんど誰からもまともな異議が驚くほどに出ていない。40代以下の若年層の多くが今後の生活に安心できる見通しもなく、ただ、昇給の見込みのない今の仕事に這いつくばるしかない現状に苦しんでいるのに、なぜ、その親の世代を始め、多くの日本人たちはこれに文句ひとつ言わないのか、私には疑問で仕方がない。
 考察すればするほど、今の日本人は他人の人生には冷酷にならざるを得ないくらいに、現在の生活のことを考える余裕しかないこと、そして、それを正当化できる自己責任論というものが強く信じられているように見える。でなければ、特別給付金せよ、助成金にせよ、その対象が誰であっても問題にはならなかったはずだろう。たとえそれが風俗嬢であっても、ヤクザであっても、同じ日本人であるならば、政府は彼らを救うべきである。彼らがこんな如何わしい業界に依存せずに生活できる環境を徐々にでも創り上げること、それが政府の本来の役割ではなかったか。
 少なくとも政治家や言論人など、世間一般では先生と呼ばれる職業の人間ならば、自己責任論などという余りにも不確実で不明瞭な言葉を発することの誤りと弊害を全力で訂正する様に努めるべきだったと私は思う。しかし、そんな声は下世話なネットの中の騒音に掻き消されているか、或いは、硬直化した空気の中で言えないままになっているかしているようで、これに関して心の琴線に触れるような議論は聞こえてこない。
 コロナ禍は私にとってますます世間に対して懐疑心を強めるばかりで、どれだけ感染者が出ようが、いくらワクチンを打てと言われようが、これらの観点がどうもピンボケしている様に思えて、私自身、世間から遠ざかって、フランスやロシアなどヨーロッパや日本の古典の世界に没頭したくなる。
 何しろ、自粛しろと言って、政府は、10万たらずの二束三文の金とサイズ違いのマスク二枚しか出さず、コロナ恐慌で特に経済的損失が大きい、派遣切りで家のない人たち、住所を持たないネットカフェ難民にとって大きな負担となっている消費税を下げる議論さえもせず、決して困窮者を助けようとはしていないのだから。こんな体たらくの政府に果たしてどこに弁解できる余地があるといえるのか。
 国家の財政危機やプライマリーバランス黒字化という荒唐無稽な論理に基づいてさも自分たちは清廉潔白で国士だという顔で、政権与党の自民党公明党は国民を救うべき役割を実質的に放棄している。
 この政府の無策を正当化するために自己責任という言葉が世間で頻繁に聞かれる様になったのだろうかとさえ思えてくる。だとすると、これは壮大な欺瞞であり、決して看過できるものではない。それでも世間で立派とされる大人たちは、弱者の惨めな生活と怠惰な態度を彼らの自己責任だと決めつけ、今の富裕な現状は自分の努力の賜物といったふうで、社会の荒廃と分断を放置しているだけでなく助長さえしている。恐らく彼ら大人たちは、この無関心の災禍が自分のところに降りかかってくると露にも知らないようだ。遅かれ早かれこんな国は溶解して滅びるのは間違いないと、私はそう結論づける。