中流意識から派生する問題について

私が中流意識に馴染めない人間と気づいたのは、大学に入ってすぐのことだった。
  学校に行けば、どうも皆他人行儀で、親近感も持てないし、行ったら行ったで、何処と無く世間の空気に流されている感じがして嫌になってくる。やがて疎外感だけが強くなる感覚ばかりが残って、ますます学校には行かなくなっていく。
  その結果、留年に次ぐ留年で社会には到底受け入れられないとて、風俗店の受付で見栄えもしない男の性欲のため、身を粉にして働いて、あれよあれよと、流転の様。
「〇〇ちゃんは、今ですね、運良くすぐの時間帯で空いてるんですよ。どうですか?サービスもいいって評判なんすよ。」
  とても指名客も付きそうにない女の不細工な容姿を誤魔化しているパネル写真を客に見せ、後にパネマジやないけえと言われぬように注意して接客するくだらない生活で得たものは、結局、金しかない。
  そのおかげですっかり虚栄心も無くなり、本来の下町気質の性格を徐々にでは取り戻せたから有難い。もともと私にはホワイトカラーのような頭脳労働など向いていないのだ。もともと下町の気性の荒い職人の血を引く癖して、スーツを着込んで仕事をするなんて性に合わないのだ。
  学校にしても、大したことも教えてもらえないところにいたとて、何もならず、さらに言えば、デフレで実質賃金が下落する中で、いくら頑張っても得られる報酬には限られていると分かれば、やる気だってなくなる。仮にビジネスで成功したとて、全体のパイが縮少しているためにそれは結局他人の所得を奪っていることになるのだ。
  つまり現在は競争が余りに激しく、自身の特性を切磋琢磨する余裕もない。そのため、結局価格ありきで勝負に決着がつく構造に現代社会はなっている。こうしたことが何となく子供の頃からわかっていたが故に、年々私の気力は削がれていった。
  高校の最後1年間だけ勉強とやらを頑張ってはみたものの、結局、行き着く先が、大学という、凡庸で退屈で無機質な世界だったのだ。これで何のために頑張ってきたのかさっぱりわからず、ヴォガネットの小説のように、お陰で頭がドッカーンとやられ、危うく精神分裂に陥るところだった。私は酷い無気力になり、何もする気になれず、やたらと街を徘徊を繰り返し、悪いことばかり想像して、ブツブツうわ言を言っては、途中であった女に怪しい病気をもらったりした。


  まだこれでもいい方なのだ。本当の精神分裂となると、話は違う。
  ゴミ屋敷と化したアパートの一室で、一人、生ゴミに集る蝿たちと会話し、その上、風呂も数日入らず、垢まみれ。家賃、公共料金などの延滞があって、初めて連帯責任者の両親に連絡が行き、この状態が発覚する。こういう経過を辿る一人暮らしの大学生、社会人は、実のところ多い。彼らの末路は、就職も自立もロクにできずに、厄介払いしたい両親に疎まれ、最後、精神病院の隔離病棟で看護師に食事を給仕され、その上、手足の膠着から寝たきりとなり、最後は排泄も自身では行えなくなっていく。
  誤解なきように言っておく。両親だけを責めるのが得策ではない、彼らも彼らで精神病院か自立支援スクールなどの機関を利用するしか手立てがないのだ。況してや世間体を気にする中流層に至っては、第三者に助けを求めるのは困難を極める。何故って、自身がこれまで打ち立ててきた経歴、社会的地位などを考えれば、汚点を残すやもしれない精神分裂の子供のことを口外すれば、どのような目で世間から見られるかと怯えても当然だからだ。
  分断された社会、具体的にいうと、核家族化した社会では、問題一つとってもその対応はごく限られた家族内でしか為されない。ところが、精神分裂ではそうはいかない。医者以外にも、地域社会、介護福祉、さらには親戚の力も必要になってくることがある。そうはいっても、視野の狭い人間というのは他所の家族のことを秤にかけて自身の境遇に優越感を得たいという衝動は抑えられない。自分だって優越感を得たいところなのに、精神分裂の子供のことを口外したら他人から何と言われるかと怯えてしまう。
  それゆえに現代、中流意識のある人々は自身の汚点について、それが第三者の助けを要するものであっても、口外できないし、況してや助けすら求められない。こうして問題を放置していく。
  中流意識がデフレという経済が衰退している現状にそぐわない形で長期化したことが、この問題の長期化に寄与したと考えると、本質は見えてくる。しかし、その観点から見ても、この問題には既に有効な処方箋はなく、長期にわたって精神分裂の人たちに公的補助をするより他はないが、しかし、低賃金の単身世帯の負担は大きく、不満も出てくる。
「なんで、あんな中年のう○こ製造機のために、俺たちの税金が使われるんだ?」
  といった次第で、最早、社会全体が、無気力、恨み辛み嫉みをますます助長していく。その結果、NHKから国民を守る党日本維新の会などの、民衆扇動の党が議席を伸ばし、ますます世相を暗くする。
  確かに、この精神分裂の子どもの問題には、医者が無秩序に処方する向精神薬の影響もあろうが、そもそもこれだけ精神疾患が増えた背景には、間違いなく、経済をめぐる現在の窮した情勢と、それによって機能不全を起こした親子間の意思疎通がある。
  しかし、学校はそれには無頓着。金さえ入ればなんでもいい。たとえ出来の悪い野郎が入ってこようが御構い無し、入学金と年間の学費をしっかり上納してくれればよいのだ。況してや公立学校が小泉構造改革独立行政法人になってからは、その傾向に拍車がかかり、将来の不安を必要以上に学生に煽っては、オプションでこの講義とやらを受けると就職に有利だとかいって、金をさらに貢ぐように仕向ける。金欲しさに民間から講師を招いて、嘘ばかりの講義をさせて、世間擦れしていない学生を洗脳する。
「国の借金が約1100兆円あって、その返済のために、社会人として納税の義務を果たさなくてはならない」
「年々増えていく社会保障費のために、これからは消費税の増税はやむを得ない」
イノベーションのためには、組織の改変が必要だ」
  しかし、私にはそれらが嘘っぱちであったことが何となくわかっていた。というのもこれらのことを言い続けたこの20年余り世間は良くなっていないからだ。
  報道にせよ、講義にせよ、全て絵空事
  このおかげでどれだけ人々は損をしているのだろう、想像するだけでゾッとする。
  世間に蔓延る見解のどこにも具体的な数字や表は無く、ただなんと無く漠然としたイメージに基づいているのだ。
  書いていくと憂鬱になることばかりで、本当、嫌になってくる。
  で、私は何を書こうとしたのか。
  話がどんどん脱線していくこの有様、私も精神分裂しているのかもしれないな。
  おっとこんなしょうもないことを書いてたらもうこんな時間やん、そろそろ出かけよう。

アメリカの民主主義

  この度、今後の日本の命運を左右する可能性が極めて高い参院選が近いこともあって、トクヴィル 著「アメリカのデモクラシー」を読み返す。
  初めて読んだときは、第二巻のほうが第一巻よりも面白かったという印象があったから、第二巻を中心に読み返したが、二十歳前後の私が当初読んだ印象とはまるで違った。読み落としがすごくあったこともそうだが、それ以上に、こちらの常識の蓄積がまだ二十歳前後では、この著作に追いついておらず、理解が中途半端であった。
  多数者の専制ー独裁も民主主義もあまり大差はない。なぜなら独裁を前に人は平等であり、また民主主義も人は平等であるため。また、多数派は少数派を無視する形で徐々に専政を行う構造を的確に指摘する。
 このような理解では、民主主義の危険性は語れず、私に足りなかったのは、民主主義の前提となる、自由と平等は相関関係にあり、そのバランスを欠くとたちまち人々は自由を放棄し、主権者に対し無力化し従属するという理解であった。
 平等化すると、何が起きるのか?ー平等にすれば、人々は孤立化し、他の人も自分と同じように考えたり感じたりすると思うようになり、周囲に無関心になる。そのため家庭や狭い人間関係の中に引きこもりがちとなる。また近代の時代は、目まぐるしく世相が動くために、身分が保証されておらず、境遇は変わりやすく、優れた知性や理論よりも、その応用と実践を重んじる。そのため、人々は無知のまま留まる。こうした無知が全体の意見に対して、自由ではなく人々を従属を招く。
  貴族制や封建制の時代は、一つの階層、一つの職業、一つの場所に留まり、そこでの主従関係のなかで生きることが、結果的に、国家全体とつながる手段であったし、また、そこでの義務を果たすことが、国家全体の安定に大きく寄与した。この環境下であればこそ各々違う境遇から多様な意見や考えが生み出されたことが、全体に自由をもたらした。
  しかし、民主主義の時代は、平等化された故に、個人は全体の前に無力化し、人間のあり方そのものに直接影響を受けた同一の考えや感情に支配され、思考は画一化しがちで、全体の意見の前に従属する傾向にある。
  これはすなわち、民主主義には全体主義を呼び起こす危険性があることを示唆しており、著書では、アメリカの話に留まらず、いかにしてナポレオンがフランス革命以後の混乱期に、ある種合法的に権力を掌握したかまで物語っている。
  今の日本に照らし合わせてみても、トクヴィル の指摘と提案は著作から150年以上経った今でも有効ではないかと私は思う。  多くの政治家や評論家、知識人、官僚などはきっとトクヴィル が言っていたことをわかっていないのではないかとさえ素人目には映るのだが、どうであろうか?たしかにそうであったからこそ、未だに民主主義を礼賛し、平等と自由を何のことはなしに享受し、怯懦な快楽と安楽を求めて、ただ騒いでいるのかもしれない。
  これはすごく悲観的な著作であるが、実に慧眼たるそれの評価は未だに絶えることはないだろうと、生意気ながら思う。
  個人的な話だけれど、こうした古典を読むたびに、人間って時代が変わっても変わることはないどころか、現代に近づけ近づくほど、劣化するものかもしれないと、一層悲観的になる。
  自国第一主義トランプ大統領の出現、行き過ぎたグローバリズムにNoを突きつけるフランスの黄色いベスト運動とイギリスのEU離脱、このようにかつての常識が目まぐるしく覆される状況下で、日本の多数派の心に根付いたグローバリズムと緊縮財政、構造改革を是とする強い信仰を果たして食い止めることがこの参院選で出来るのかと、トクヴィルに尋ねてみたら、彼はこう答えるだろう。
「安寧を願う民主国家の国民が、争いを避けるべく信仰を表立って攻撃することをあえてしないがため、主要な意見はすでに固定化されている。したがって、この信仰を揺れ動かすことは容易ではない。」
  もうこの国は衰退への道を歩みだしているようだ。

私の遍歴

 私がある大手新聞社の最終面接で落ちた理由は、消費増税とTPP交渉参加の是非を巡る議論で、その場で元財務官僚と国立大の経済学部の元大学教授の二つの肩書を持つ取締役と対立し、彼の言説を一つ一つに反論し、その上でこう追い討ちをかけたためである。
「あなた方の誤った言説こそが、これまで20年近く、多くの日本人を殺した。新聞等の大きな力を持ったメディアが誤ったプロパカンダを流すだけの謀略機関に過ぎないのであれば、きっとあなた方のことを、自説の正当性のためだけに、後世の将来を犠牲にしたものと、辛辣に、そして、あなた方をまるで犯罪者のように、歴史家は書くに違いないでしょう。」
最後、私はこう締めくくって、その場を去った。あれは10年前のちょうどこの季節のこと。
 それから私の予想通り、消費増税した結果、景気はさらに悪化し、再デフレ化した。また小さな政府論に基づく新自由主義的政策と国民の生活を無視したグローバル化政策が推進されるに至って、世相は一層暗くなった。
  経済について知るきっかけは、この最終面接のちょうど一年前の梅雨の頃、尼崎にあるかんなみ新地で売春している女と、その店先で話したことだった。彼女は、若い私に、「橋下さんとかいるけど、あんなのお陰で、娘が通っている私学の幼稚園の補助金が減って、通園費が嵩むばかり。あんなのを支持している人はきっと世間知らずやよ。」と、教えてくれたのだった。そのこと以来、大阪維新の会の政策の根底にある政治思想について考察すると、彼らを支持する人たちの無教養さと不勉強さ、乱雑さが、明らかとなり、私も不支持に回った。一体、あれを支持していたのはなんであったか?私の不勉強もあったが、おそらく、あれは「空気」だった。
 あの空気に逆らえば、無視され孤立するという恐れが全体にはあったのだろう。
 ここで詫びなくてはならないのは、学生時分の私は全く不勉強の白痴であり、自由平等博愛などいう近代社会の空虚な標語のようなものを無条件に信じていたノンポリであったこと。そして大学という場に足を踏み入れたばっかりに世間というものをかなり甘く見てしまったことである。私は、ビジネス社会に適合した立派な人間ではないが、それでも世間について意見を述べれば、世間はとんでもなく不確実で偶然や運命といった不可避なものに大きく左右されるもので、ビジネス界のいうPDCAやら自己啓発やらいった単純極まる合理性では問題は解決しない、解決するものは、きっと思想ー古くから営々と守られてきた伝統ではなかろうかと。
 さて、その伝統はどこにいった??どこにも見当たらない、フランスの思想家トクヴィルのいうところ、「平等は、我々を互いに孤立させ、最大多数の力から無防備にさせる」との指摘からみて、伝統を戦後大多数が忌み嫌った結果、この共通の観念である伝統を、もはや世界で最も長い歴史を持つ日本人ですら持ち合わせていないのだ、つまり、この世間の問題ー貧困、孤立、児童虐待、経済の停滞等々の解決は、絶望的なことであるが、今の日本人には到底できないのである。トクヴィルのほかの指摘通り、「平等は、自分のことしか考えられなくしてしまう」、未来、過去、現代のいった一連の時間軸でものを見ることを、とりわけ戦後、平等という概念が本格的に入ってきたからは、日本人は辞めたのだった。今、活躍しているビジネス界の連中を見てみればいい、彼らの主張の根底には、「今だけ、金だけ、自分だけ」という当座のことしか気に掛けない危うさがある。
 若い私が、経済や政治について改め考え直したのは、紛れもなく、世間で底辺といわれる階層ーつまり風俗嬢、ホームレス、日雇い労働者、シングルマザー、精神疾患患者との交流にほかならない。彼らは、政治という金持ちの享楽と化したものの無視された犠牲者である。彼らの一言一言には、政治家、ジャーナリスト、作家、学者といったエリート層にはない重みがある。そう、彼らの言葉には日に日に悪化する生活と毎日戦っている身に迫る抗いがたい現実感が伴っている。
 世相と人心が乱れる時代の政治は、一主権者たる国民が真剣に議論ができる環境でないと、その運営と維持は困難であり、もしここで誤れば、間接的に人を殺すのである。一つでも誤れば人を殺す可能性があるという緊張感というものが、あいにく大阪維新の会には無かった。彼らが声高に主張する内容の多くは、ソ連という敵国が負けた90年代初頭から持て囃されたものの焼き増しに過ぎず、自殺や貧困、或いは未整備のインフラ等の身近な問題からはかけ離れていた。西成の安宿や三角公園近辺、新今宮駅の付近、或いは、兎我野町や日本橋等にある安ラブホテル街に、屯して生活に追われる人たちのことなど、全く考えていなかった。それらを自己責任と称し、見捨て、「難波の人情こそ、大阪の持ち味です」などと、浮かれた口調で絶えず選挙カーのスピーカーから謳いつつ、彼ら維新の会は自身が目立つこと、そして自分たちが常に優位に立つことしか考えて来なかったのだった。冷静に見てあれは奇妙な光景だった。
 彼ら、おおさか維新の会の政策が失敗に終わり、住民が路頭に迷ったら、彼ら政治家はどう責任を取ろうというのだろう?きっと、自分のしでかした失敗の原因は、抵抗勢力によって改革が足りなかったというのだろう。これこそ無責任というのではないか?
  その延長で、未だに世間で跋扈する新自由主義や緊縮財政政策について調べてみたところ、やはり、おおさか維新の会への不支持を頂いたときと同様に、浅薄さと議論の乱暴さを感じ、すっかり、世間で少数派に属する考え方に染まったのだった。
  自国通貨建の国債を発行する国で財政破綻などあり得ないし、そもそも社会保障のために増税する意味もない。税の目的は、財源にあらず、インフレ率の抑制と再分配にある。ーこのことは経済学者にとって異端らしい、インフレこそ恐怖することらしい、現在、デフレなのにインフレを恐れる意味がどこにある?ーまた、競争社会と人は言うが、その競争とは、デフレでは全体のパイの奪い合いに過ぎず、貨幣価値の上がるデフレでは資金力が強いものの勝利に終わり、弱者は常に不利な目に遭う。ーこれはビジネス社会にとって異端らしい、彼らは努力を人に求めるが、その結果に対する報酬は払いたがらないのだが。-そんな文明は多様性と強靭性を失い没落するといった結論を持つに至った。
   ロックバンドのOasisの曲の歌詞から引用するのは、大変稚拙と思われるが、この歌詞の通り、働く価値などない、だって、日本の場合は、物価と同様に賃金が年々下がり続けるデフレであり、全体のパイが増えない限りにおいて、金儲けをしたところで、それは結局、誰かの所得を奪っているに過ぎないのだ。それにだ、デフレ経済の下でどんだけ頑張ってもその報酬は下がり続ける、若しくは報われる日は来ないことは明らかである。
 しかも、この問題について、適切に論じた経済学者が、ネット以外の大手メディアではお目見えすることはなく、大体は、人々が抱く生活の苛立ちを煽り、新自由主義的、或いは、グローバル化的政策の支持を取り付けようと画策したりして、国家全体を分断することに躍起だった。
「公務員は既得権益を貪る怪しからん連中だ」
  その結果、公務員の約1/5が非正規雇用になる異常事態。何が進歩?これは後退ではないか?公務員数が世界的に見てもかなり少ないこの国で、一体。どうして彼ら公務員が叩かれないといけないのか、理解に苦しむところである。  ー例えば、労働市場流動性、公共部門の民営化等々、考えてみれば、日々の苛立ちを逆手に取られているだけで、これらのことが進めば、おそらく、一層、日本全体は分断し、景気をさらに悪化し兼ねないし、緊急時に公共部門の対応は遅々となり、余計に被害者を出し兼ねない。
 メディア離れが深刻だと彼ら知識人は騒ぐが、それは当たり前の話である。彼らの話には、生活での利を得るところなど皆無で、目の前で起きている現実についてなんら説明していないのだ。彼らは、理論という空想の中でしか生きられない。
Is it worth the aggravation To find yourself a job when there's nothing worth working for?ー働く価値などのない仕事を見つけるのに、苛立っている意味などあるのか?ー
 全くこの国の政治論争の程度といったら、かなり低い上に、一般の労働者の感覚との乖離があまりに甚だしい。私も大学でエリート階層というものに若干触れてみたが、実際は、目の前の生活を危うくするものに加担する安逸で軽薄な思考回路を植えつけられるだけで、全く私には不必要なものだった。
 この国ではエリートになればなるほど、アホになる、そんなことを思って、無気力になり堕落していった過去。破れかぶれな青春。
 とっと高卒で働いて、自活していた方が遥かにマシだったと私は思う。
 大学で得たものは、取り返しのつかない過去と無駄に肥大化した自尊心、学費という膨大な借金しかなかった。
 スタンダールドストエフスキー、ゾラ、バルザック井原西鶴樋口一葉等の著作と、多少のレコード、多少の服とスニーカーさえあれば、私は満足だったのに、迷いの多かった当時、生活の安寧と体裁をエデンの園紛いな大学に求めたが、ひねくれている私には合わなかった。傲慢にも世の中を変えられると夢想したものだが、それもかなわず、現在、クソみたいな仕事をして、当座の生活をやり過ごしている。こんな私が同窓会にノコノコ出ていくわけにはいかない。
 
 
 
 

空虚

  いつも本屋に行けば、飛ぶ鳥を落とす勢いで完全にハイになっている経営者か、明らかに躁状態で言動がラリっている心理学者が書いたと思しき自己啓発の本がやたらと平積みされている。私のような懐古主義な人間は、顔をしかめてそこの横を通り過ぎなくてはならない。それらの本には当座の対処方法と憐憫に浸る見苦しい著者の姿しか書いておらず、少なくとも3世代ほどの時間の流れに耐えられるものではない。トクヴィルの「アメリカの民主主義」や孔子の「論語」みたいに人間の本質を掴みきったものではなく、自説に酔っているに過ぎないのだ。そんなものに価値などなく、私には不必要なものである。
  事実、琴線に触れるものなど少ないようで、ブックオフに行けば、やたらとその手の類の本は100円で棚に放り出されているのをよく目にする。読まれては捨てられる運命にあるこれら書物は一体何のために出版されているのか、いまだに謎である。
  しかし、ダグラスマレーというイギリスのジャーナリストが書いた「西洋の自死」を読めば、その理由は朧気ながら見えてくる。
  各種哲学の脱構築化がポストモダン以後急速に進んで、今起きている問題に現代人がとても対処できないほど無能になっており、その場しのぎの考えをあたかも経典の如く吐き散らしているのだろう。それに感嘆することでしか一般の読者は満悦を得ることができないほど、精神が衰弱しているのである。目新しいものに無条件に惹かれるほど読者の認識は地に落ちたの立つ。
  しかし本質を避ける癖のある自己啓発の本の著者らは、結局、自身の提唱する価値観からでしか憐憫を得るしかなくなった。フランスの小説家ウェルベックが危険を冒してまでも包み隠さず書き記した現実に横たわるどうしようもない虚無感からは逃れているだけなのだ。
  移民による文化破壊、新自由主義による共同体の破壊と孤独、これら全てを今やウェルベック一人で世界に向けて文学を通じて表明しているようなものである。 
  昨今のフランスのデモや、イタリアの五つ星運動、イギリスのEU離脱アメリカのトランプ大統領の出現は反グローバリズムを志向する庶民の意思表明にも関わらず、相変わらずエリート層はグローバル化はすばらしいと礼賛し、未だに新自由主義的な政策を推進している。しかし、私の知る限り、彼らのお人好しで偽善的で優等生的態度が決して庶民の琴線に触れるものではないことは明らかである。トランプの言うように、メディアを含めて彼らエリート層はFakeである。
  彼らこそが文化破壊者であり、生活を脅かす存在である。
 また日本だけに限らず、主要国全体の問題として、若年層を中心に覇気が見られず、まったくもって今後の展望について不安であると老年期の人たちが愚痴を零しているを聞くにつけ、若年層をこうまで無気力で頼りないものにしてしまったのは、彼ら老年期の人々が支持した政策等の所以ではないかと皮肉を言いたくなるのは私だけではないはずだ。
  日本に限って言えば、デフレが20年以上も継続し、実質賃金は過去20年間で平均約15%も下がっている。この状況下、賃金の大幅な上昇は見込まれるはずもなく、どれだけ仕事に奮闘したとて、望まれる上昇は微々たるもので、結果を知られされるたびに情けなくなるばかりだ。つまり、一度でも出世レースから退けられた人間は、よっぽどの機会を掴まない限りは、低賃金労働に甘んじなくてはならない、これが現実である。そんな中で結婚も子育てもへったくれもない。
  かつての繁栄の残り香にまだ酔いしれたいのは分かるが、それは既に2008年のリーマンショックで終わったのだ。あれから10年も経っても尚、日本人の大半はグローバル化礼賛の気配を止める気もなく、さらに言えば、当時以上に速い変化と転換、決定を求めて焦燥すら隠しきれなくなっている。国会での早急な法案決定が何を意味するのか?それは、日本の場合は、安全保障をアメリカに任せたばっかりに。国民の了承なしに、アメリカに本社を置くグローバル企業の決定については無条件にそれに従わなくてはならないことを意味する。つまり、このまま行けば、デフレの長期化と格差の拡大、貧困層の増大、増加する移民による国家分断などで、日本国の存立すら怪しくなってくる。今ですら地域社会は瓦解し、格差は拡がるばかりなのに、さらにそれを推し進めていこうと政府はしているのである。国家の分断と国民の個別化がより一層深刻となった今の状態がさらにもっと深刻になるのだ。あなたの子供や孫の世代には、もしかすると当たり前のように享受している水道、電気、ガス、鉄道、道路等の社会インフラも使えなくなるかもしれない、そんなことになっては困るだろうに、身の回りの誰も何も言わない。
  この空白は一体何であろうか?
  単に政策の如何によってこのような状態になったのだというのは、あまりに拙速な判断であろうことは私にもわかる。それ以上の何か、現代人の思考といったところに、何かしらの変化があったのではないかと推察するのが自然ではないか?
  いくら政策一つ一つについて論じても、グローバル化礼賛社会からは、「この流れには誰も逆らえないのだ。だからこそ、それに順応する必要がある」という回答が来て、私の考えは全く無視されるのである。
  別にこれは決意表明ではないが、いずれにしても、今の会社員生活ではこの状況に対して何もできないのは確かであり、このまま今の生活を続けることが私にとって収入以外の部分で無意味であることは言うまでもない。
  当座の安定を取るか?それともそれをかなぐり捨てて言論活動をするのか?さてどうしたものか?私は今、この問題に煩悶しているのである。
  いずれにしても確かなのは、このままいくと日本は中国の属国になることである。どれだけ頑張っても悲惨な結果に終わることが分かっているのに、このまま仕事に精を出すのは実に馬鹿げたことである。

絶望

世間は平成最後の〇〇と囃し立てております。
  いつの時代も御代が変わることになんらかの意味を求めるわけでありますが、現在の場合は恐らく最悪の平成時代からの脱却を仄めかすものでしょうか。私は平成という時代に多感な時期を迎えましたが、ちっとも社会全体が向上していく気配も文化的発達の機会もないように思え、寧ろ世相が思わしくないばかりに悪くなっているのではないかと日々思索を逡巡している次第であります。
  紋切り型の論評、政治的正当性、極端なリベラリズム、これら一切は全く我々に考える時間や余裕すら与えずに、決断を迫ってくるのです。 
  一度反論すれば、人でなし扱いを受け、疎外される。若かった私はこれでは黙るより他は無かったのです。
  最近、日本のみならず世界的に文化が相当劣化していると評する人をお見かけする機会があり、彼にその訳を聞いてみると、親切に回答を頂いて、なるほどと思われたので紹介致しましょう。
  彼曰く、エンタメなんてものは消費財の体以上の価値はなく、その場限りのものであり、永続的に続くであろう文化的価値が今の流行にはないことは明らか。それには世界的に見られる相対主義と個性尊重主義が跋扈したことがあると。
  つまり、共通の認識や価値基準がそれこそ溶解してしまったために、各人各々で別々に行動する他ならなくなったというのです。
  確かに思い当たる節がございます。
  大阪にいた頃、大阪維新の会に対して反論しようものなら、ほとんどの人からは「お前は何もわかっとらん、知事さんが言うように改革せんと大阪は地盤沈下してまうやろ?」と鋭く切り返されて全く議論すらならず困り果てた事が多々ありました。つまり互いに共通点や妥協点を見出す事なく、各々に自分の主義主張を通そうとして互いに反目しているだけなのでした。だからこそ、敵対している人々は有る事無い事、知りもしないのに罵るような態度で言ってのけるのです。
  結果、未だに大阪は地盤沈下したままで、あろうことか、過激な新自由主義に染まった改革路線を突っ走り、自ら首を絞めております。
  きっとのちの歴史家はこう書くでしょう。
「未熟な平成世代がメディアに翻弄されて愚かな選択をしてしまい、ここまで都市環境を悪化させたのだ。」
  一度根付いたイデオロギーや主義主張にたとえ間違いがあっても訂正することも詫びることもなく、そのまま突き進む為政者ばかりの日本で、果たしてどうやって希望を持ちえるのでしょうか?しかし、それでも生きていくしかないのです。
  希望がないと生きていけないとある初老のビジネスマンらしき男がテレビのインタビューで嘆いておりました。
  希望?そんなものがなくてもこれからも生きていかなくてはならない私からすれば、何と甘えた弁舌でありましょう。
  彼のような人々が希望欲しさに反論や批評を許さずに改革や規制緩和などを推し進めている、あるいはそれを考えなしに支持しているとしたら、どうでしょう、それは無責任以外ないでありませんか? 
  入管法の改正、水道の民営化法案、種子法廃止、消費増税など、これら今世間を騒がしているものも、じっくり議論もせず、単に利益を最大化したいという日本のみならず世界中の財界の後押しの下、行われているのです。
  現に国会で議論もすることもなく、内閣の諮問会議が決定したことに賛否の投票する場でしか、今の国会はないです。
  民主主義とは実に恐ろしいものです。一旦支持され浸透した考え方だけで何の訂正もなく突き進むのですから。それに追随するマスコミも恐らく金という弱みを体制側に握られて反論できなくなって機能不全の有様です。
  平成という時代で、「今だけ自分だけ金だけ」の実に利己的でニヒリスティクなイデオロギーがもたらした悪弊に苦しめられる国に日本は取って変わられたことはお分かりになるかと思います。そしてこれからもこれが続くかと思います。
  現にそうでしょ?お互いの主張を譲らず、そして、お互いの価値観の正当性を信じて止まずに、反目したり、あるいは喧嘩になるのを恐れお互いに肝心な事は黙り込んでいるのですから。
  一体、どこに未来があると思います?
  私は悲観的な人間なので、ないと思われてならず、相変わらず、古典文学に耽溺するわけであります。皮肉にもそれら古典にも今書いた事と似たような問題をテーマにしている訳でして、息抜きにもなりませんが。人間はいくら時代を経ても愚かしいことに変わらないものらしいです。
  
 

たわけどものたわ言

マクロン政権が燃料税の引き上げを宣言したことに端を発するこの度のデモは1968年にあった五月革命に匹敵する規模という。フランス全土に反グローバルの動きが本格的となり、ヨーロッパ全体がナショナリズムへの回帰を計るのは確実で、反政府デモは、更に隣国のベルギー、オランダに飛び火している。
ヨーロッパ域内のグローバル化がもたらしたものは、人モノサービスの移動の自由化と引き換えに、東ヨーロッパからの移民流入に伴う賃金低下と、WTOに加盟した中国やベトナムなどの発展途上国からの過剰な輸入による熾烈な価格競争、治安の悪化、更に通貨の統一による財政金融主権の喪失といったものばかりで、将来に禍根を残すものばかりである。
マクロン政権は、五月革命のとき、ド・ゴール政権が倒れたときと同じ結末を迎えるか、もしくは、フランス革命の時のように特権階級の凄惨たる公開処刑で終わるのか?ーいずれにしても多国籍企業代理人でしかないマクロンの退任は確実だろう。そして、ヨーロッパ全土に反EUの動きは弾みをつけて止まることはないだろう。何につけてもグローバル化の終わりは、革命か戦争かという悪夢のような悲劇で過去は幕を閉じるしかなかった。しかし今度のグローバル化が厄介なのは、主要国だけに留まらず、東南アジア、中東、アフリカの国々までもが当事者であり、更には核兵器まである。これでは過去のような大っぴらな解決策は取れず、さてどうしたものかと今の世の指導者は煩悶しているのである。残念ながら今後20、30年近くは混乱を呈するのが関の山であろう。
ヨーロッパに比べて比較的グローバル化していない日本はまるで白痴にでもなったかのように世界の潮流とは逆にグローバル化へ向けてせせこましく動いている。きっとこの国が没落し焼失するのも時間の問題であろう。
ブリュッセルにあるEU本部のお偉いさんたちは、見せしめとしてEU離脱を表明したイギリスに対し、無理難題を押し付けている有様で、離脱を達成するには困難ばかりであることを他国の反EU派に知らしめようとしている。
グローバル化経済における交渉や協定、条約などには、加入の意思を表明した時点で飲み込まれてしまうのがオチで、国内の反発があって離脱なんてしようものなら相当な違約金、あるいは、途方も無い交渉をこさなくてはならない。(グローバリズムから脱却することなぞ、アメリカに隷従している日本政府ができるはずもなく、きっと身包み剥がされるだろう。安全保障の首元をアメリカに抑えつけられた日本にやれることは、ただアメリカ政府に従うことだけである。悲しいかな、今やアメリカの覇権国家としての地位が相対的に低下している中、世界第二位の経済力を誇る中国との戦争をやる気なんて更々ないのだ。ただアメリカは国益のために動くのであり、日本国民のために動くことなんてまず有り得ない。)
最近話題の水道の民営化もその例に漏れず、民営化された水道サービスに不満を持った住民と自治体が再度水道事業を公営化しようものなら、相当な違約金を税金から水道メジャーに払う羽目になるのだ。水道運営でもたらされた利益は株主への配当金と化すというのに、住民にはその利益について文句はいえない。だって、民間企業が行うことであるから。
民営化なんて言葉に騙されたらいけない。
民営化とは、すなわち、公共財を個人の私有財産にするだけである。しかも、個人の利益のために。
このようにグローバル世界は醜く、金がものをいい、国家主権をもそれに屈しなくてはならない。それにも関わらず、水道民営化について抗議運動が日本では起きなかった。民営化されるからには良くなるに違いないという神話がまだ極めて強いようだ。
経世済民よりもビジネスを優先した結果、その国はどうなるのかという実験が、ヨーロッパやアメリカで失敗してきたのにも関わらず、また中国の覇権主義的行動がビジネスの世界にも広がっているのにも関わらず、この度の首相の訪中に同行している日本のビジネスマンたちの姿は本当に滑稽でしかなかった。ネギを背負った鴨ではないか?中国の狙いは軍事技術に日本企業を利用することがここまで明らかであるのに、金儲けのために、彼らは先人の遺産を売り渡したのだ。これを売国奴と言わずなんという?
ここまで世間の趨勢について書いていったが、全く今後の見通しが暗く、鬱になる。
生きなくてはならないが、次回の消費増税で確実に日本はデフレからの脱却なんて出来ないことを分かっていながら労働に従事するなんてほんまにアホらしいもので、年々下がりつつ給与のために働くことにほとほと嫌気がさすものです。

私は悪魔

  私の奇怪な性格故によく精神障害であろう人と関わる機会がある。

  例えば、「私何故不幸なのだ?」と不平不満を述べる若い女。袖をまくった片腕にら見るに耐えられぬリストカットの痕があった。

  仔細に話を聞けば、大声では言えないが、結局、自分のせいやんけと言いたくなるようなことで頭を抱えている人であった。

  簡単に股を開き男の言いなりになることでしか、人間関係を築けないことについて、私が意見する気などないが、実にこの女と面と向かい話を聞くだけでも時間と労力の無駄で、彼女の背負う不幸の陰に頭が痛くなりそうだった。今の男に捨てられても、結局また性欲を解消したい別の男の言いなりとなるのだろう。

  さて、私の叔母が入院以後幾分冷静さを取り戻し、自分の母親が寝具の間に挟まり死んでしまったことを放置したことについて何らかの呵責の念に駆られているのかと思い、今日、見舞に行ってきたが、そんな様子は無く、自分のことしか考えていなかった。

「昨日はお母さんの誕生日だのに、私は退院できへんのはおかしい」

 「きっとあんたが私を家から追い出したいだけで、この入院は長引いているに違いない」などと散々身勝手なことを言い募っていた。

  流石に私もこれには反論せざるを得ず、

「あんな死に方をばあさんにさせておいて、お母さんの誕生日とはなんかいな?全くおばさん、あんたあほやろ?」と、つい思っていたことが口に出てしまった。まあ介護が辛いと言い募る割りに何もしていなかった叔母にはこれまでも幾度となく腹が立っていたが、口には出さなかったが、今日不意にそれが出た。

  しかし、ようやく父が叔母の行き先をある有料老人ホームに決めて、それに叔母が納得しかけていた今、私は無造作にこの身勝手な叔母に初めて反論してしまった。

  すると、叔母の様子が一挙に不穏なものになった。

  声は荒げるわ、手当たり次第物は投げ飛ばすわで、異変に気付いた看護婦が病室に慌てふためいてやって来て、「落ち着いてくださいね」と、そっと叔母の肩に手を添えた途端、

「この子は悪魔だ、地獄に堕ちろ!」

  私を指差し罵るのであった。

  私は悪魔らしい…。

  たしかに私のこの反論で叔母の精神疾患が悪くなれば、有料老人ホームに行くよりも遥かに安上がりの精神科病棟での生活が更に長引いて、私と父が相続する財産も多少守られるのだ。

  そう、人の不幸を私は自分の幸運のために望んでいるとは、悪魔以外に言い表しようがない。

  介護は人を悪魔にする。