終わりの始まり

駅前に立つ政治家がする演説ほど虚しいものはない。多くの人間が耳を傾けて立ち止まることなく通り過ぎていく。政治は所詮、金持ちの享楽、いわば、大衆人の戯れ、彼らがいう全ては、絵空事に過ぎず、グローバリズムが末期的症状を呈していてもお構いましに、声高に理想世界について熱弁を振るう。
「日本には世界の難民を救う義務があり、また人出不足のために外国人実習生を受け入れて…」
「日本の財政難は深刻だ」
「日本の構造こそ問題で、改革だ、改革だ」
もはや彼らの言論の行き着く先には亡国しかない。自らが閉塞感の原因となっているのにその現実を見ようとせず、「絆」「団結」のスローガンを掲げている。こうした明らかな偽善がまかり通り、テレビは芸人を出してゲラゲラ奇妙なほど楽しそうに笑いを誘っている。新聞は軽減税率の対象になったことで堂々と政府や財務省などの体制側を批判することができなくなり、権力の監視という本来の役割から離れ、もはや体制を擁護するだけに落ちぶれた。
唯一、期待をかけれそうだった音楽家、文学者の連中は、政治批判すれば、結局、中身の無い紋切り型の体制批判に終始するのみで、自己憐憫にどっぷり浸る白痴か企業の利害関係者だったということが暴露されて青恥をかくのだった。
イラク戦争の頃、日本人では、誰一人としてアメリカの侵略行為を糾弾することなかったし、未だにその国の軍事力にすがってのうのうと生きている。占領され凌辱され、精神性を骨抜きにされ、その挙句押し付けられた日本国憲法でさえ、後生大事に守ろうとする。
どれほど優秀な民族であろうと、ここまで無批判で従順であれば、滅びるしか道はない。絶望以外にこの国の行く先には無いようだ。
日本人は素晴らしい?そんなの嘘だ。日本人が素晴らしいのであれば、何故20年以上、実質賃金の下落が止めれないのだ?東北震災直後に真っ先に復興を進めるわけもなく、逆進性の高い消費増税や経済界がしきりに推し進める自由貿易協定の議論を始めるのか?同胞が賃金の下落に伴う貧困化に苦しんでいるのに何故食い詰めた外国人を労働力として受け入れようとするのか?
対米戦争開始時、「建国来、我が国は戦争に負けた事がない」と鼓舞されたものの、実際は微々たる装備で闘わざるを得なかった時代から何一つない変わっていない。技術大国、医療大国、経済大国といったメッキは既に剥がれ出している。いくらこの国の国民性を賞賛されたとて、やれることは、一斉に貧困に引きずり込まれていく中で責任を他人に転嫁して喘ぐことだけだ。
「誰のせいでこうなった?俺たちの知らぬ間に。」
10年後、20年後、誰もが、神社の跡地に建ったモスクを見て、そういう呟くに違いない。
日本の終わりの始まり…。まさに今、そうなろうとしている。おっと、世間に抱く心境を披瀝したいためにこの文章を書き出したわけではなかった。虚無感に打ちひしがれて斜に構えた事など言うつもりもないのに、なぜこんなことしか書けなくなったのだろう?きっと、私が世間一般の生き方に堪え切れずに、ズレていく感覚を持ち合わせた結果だろうけど。

さて、我が家の8050問題は、祖母の哀れな死を以って終わった。そして残った祖母の娘、つまり、私の叔母は、約32年間に亘って世間から隔離されてきた人間であるため、全く無能で、祖母の亡き後、生活全般の面倒は相変わらず私の役割として残った。それがいつ終わるか分からず、私は幾度も煩悶し、時には非人間的というべき行為に手を出そうとした。おかげで私は他人に対して無関心で冷酷な性格となってしまった。
深夜には必ず大声で「コーヒーのみたい」と寝床から大声で叫び、仕事から帰ってくると「お腹すいたからなんか作って」と何の躊躇もなく疲れた私に言う。
祖母が死ぬまで欠かさず献身的に世話をしてくれたおかげで、叔母は言えばすぐに望みが叶えられるものだと当たり前のように思っている節がある。
昨年、私がいないある夜、祖母は老体に鞭を打ち、叔母がその時欲しかったタバコとコーヒーをわざわざ彼女の寝床まで届けようとしたら、途中転んでしまい、私が帰ってくるまで、床に突っ伏していた。それを見ても叔母は他人事のように振る舞い、煙草をふかしていた。
「あんたにえらいところ見られて…」
祖母はバツの悪そうな顔をした。如何にも娘の身勝手さを見られて穴があったら入りたいそんな風だった。
「夜に叔母の相手はしたらかんよ。暗いし足元が危ないしさあ」
私がこのように警告してもなお、祖母は献身的な世話を彼女に対して欠かさなかった。
親子だからこれは仕方のないことだとは、独り身の私には納得しかねたものだった。
そんな調子で叔母は日常全般にわたる事が出来ず、祖母に頼りっぱなしであったから、亡くなっても態度を変えることはなく、勝手に寺の坊さんにうちの仏前でお経を読んで貰う約束をしたりする。そのため、私は供養日の前日には仏花を買う羽目になる。また訪問介護のヘルパーに全く生活には関係のない相談を延々持ちかけるものだから、家事は溜まる一方で、叔母が寝床にしている部屋は煙草の吸い殻や食いさしの菓子パン、スナック菓子のカス等が散乱し、クタクタに疲れた後でそれを掃除する羽目になる。一向に私の負担が減る気配はなかった。
リウマチで歩けないのは分かるし、精神疾患で判断能力が鈍っているのも分かる。しかし、これでは誰かの犠牲がー主に私だがーなければ、とても叔母が生活できないのは明白であった。
精神科の窓口にその惨状を訴えても、
「ご本人の意思がなければ、生活諸般に関することまでは手出しできない」
全く手がなかった。
そのため、もう一度精神科の入院制度、処方される薬の特徴等を改めて調べ尽くしてみた。どこかに殆どの精神科医が主張する「本人の意思が大事」という議論を崩し、こちらの意志を通せることができるものがあるはずだと私はいきり立った。
精神科の医療関係者が診断の際に用いるDSMマニュアル、製薬会社が薬に添付する文章、精神疾患看護マニュアル、名古屋市厚生労働省が公表している精神疾患に関する医療措置に関する書類を自分の仕事そっちのけで読み漁って行くと、あれよあれよと、今までどこに問題があったのかが見えてくる。
かつてそこから処方された精神薬には、甲状腺機能低下や歩行困難、心臓疾病、肥満などといった副作用があって、その影響下で肥満となりリウマチになったのではないかという疑問。それについては叔母は無頓着に従順に言われるがまま薬を服用していた。
精神疾患の病状や兆候への本人の理解が治療の際にはなければならないこと。心理教育といわれる治療が行われた形跡が叔母の診断書には見当たらなかった。
社会的孤立を防止するため、差別や偏見が多い精神疾患であってもそのことを家族間で共有することの重要性。介護を始める五年前まで私は叔母の診断名すら知らず、また、叔母の兄、つまり父にすらこの事を祖母は知らせていなかった。
精神疾患とは脳の神経伝達物質の過剰分泌に伴うものであるという仮説に立った薬物治療には何ら医学的根拠がないこと。脳波センサーでドーパミンやセルトニンを計測したうえで治療する精神科医は日本では少なく、薬の相性云々と言い訳して専ら多剤多量治療が一般的。脳に直接影響のある薬を大量に複数種類、何の説明もなく、処方するわけであるから、脳の機能低下はもちろん、手足の震え、よだれの出っぱなし、排泄機能の低下など、無意識に脳が制御していた身体的機能の衰えも患者の挙動に見られて当たり前であり、そのことに疑問に思わない家族もある。
精神病患者の同意が難しく自傷他害の恐れのない場合には医療保護入院という手があること。このことは医療関係者は負担の増加を恐れて、家族にあまり教えたがらない。
これらのことを踏まえ、私は叔母の精神科受診前に必ず窓口に電話して訴えてみたが、何の効果もない。あるとすれば、無作法な応対だけである。
「仰ることは分かりますが、本人の同意がなければ…」
医療保護入院を検討してくださいよ」
「そこまでする必要がないと先生は判断されて…」
「明らかに手足の震えだってあるし、ご存知かもしれませんが、着ている服や乗ってくる車椅子から尿の臭いだってするわけじゃないですか?それはつまり排泄機能が低下している可能性だってありますよね、とても私一人では面倒見きれません。」
「あなたも相当ご苦労されてるでしょうが、そうは言っても我々は専門家ですよ。況してや先生はそれのスペシャリストですからあなたに言われなくても分かってます…」
ガチャ!電話口の向こう側から聞こえるこの乾いた虚しい音にめげずに何度となく電話で訴えた。
しかし、一向に効果はなかった。
このまま半年が過ぎた。

  昨日、季節の変わり目で必ずや誰もが一回は患う風邪のために病院に行けば、たまたまそこで診察を受けていた叔母は、症状とは関係のない事柄について老医者に大声で訴えていた。

「私は辛いです、母が死んで一切のことが辛く重くのしかかるのです。遺産の手続きについて甥と兄が勝手に進めて…」

  点滴を受けるため、近くの寝台に伏せていた私は、叔母の訴えがあまりに大きな声たったことと、その馬鹿馬鹿しくさが堪らず、耳が冴えてしまった。

  私がそばにいることも忘れたかのように聞き捨てならないことをつらつらと論う。

  「あの子が来てから私のリズムが崩れた…」

  いやいや、まるでペットの世話のように、買い与えるだけで介護をした気になったあなたをこの5年間支えて来たのは誰か?

  生活能力もないままに60年もの時を過ごした独身女の哀れさたるや、想像に難くない。米の炊き方、電話の操作方法、洗濯の仕方などの日常の事がからっきしダメで、私が大阪から名古屋に戻ったころには、家は荒れに荒れていた。

  水垢まみれの浴室、詰りぱっなしのシンク、尿で汚れた便器、食べかすまみれの居間、線香の灰まみれの仏壇、これらを祖母が健康だったころまでに戻したのは誰か?

  精神疾患を理由に現実社会から目を背け、障害者年金を貪り続け、生活の不便さに何の対処もせず、排泄すら自室ですることになったこの身内に、私が自身の時間を犠牲に尽くして来たこの5年間は一体何なのか?ーこんなことを思いながら、叔母の方向の定まらぬ愚痴を聴いていた。

  世間からの無知で差別されてきたと考えがちな、いわゆる精神病患者だが、本来なら世間の冷たい視線に世俗人と同様に晒してみてもよいのではないかと私は思った。 差別だと騒ぐ前に何かしらやることがあるだろう。

  ようやく精神医療で減薬方針が定まって医師が無闇矢鱈と精神薬を処方することが困難となったが、しかし、認知能力に作用するこれら精神薬の後遺症は消えない。近所迷惑も顧みず今も叔母は家の付近に猫の餌をばら撒くのだった。

「これが生き甲斐だから、邪魔しないで!」

  そして、うちの納屋で産まれた子猫が育児放棄され行き場を失い、私の近くで、か細い声で来やしない母猫を呼ぶのである。

 

 

 

  

盆休みの雑記

我が家族の8050問題の原因の浅薄さには驚くことばかりであるが、現実であるから仕方がない。
私の根本に、この問題が大きく横たわっている以上、目を逸らすわけにはいかないのだ。両親の弟妹のいずれも精神疾患によって人生を台無しにされ、もはや誰かの庇護が無ければ生きていけないほど、白痴になってしまった。祖母が亡き後、私がそのうちの一人である叔母の面倒を見ている。まったくもって負担でしかなく、遺品整理はもとより、葬儀の段取り、保険の手続き、盆の準備などは、この私が請け負う形になり、身動きが取れない。
段取りをつけて、台湾、インド、ミャンマー、モロッコ、ジャマイカ、イギリス、フランス、ロシアなど、行ってみたい諸外国への渡航もこれではままならず、折角パスポートまでとったのにと、意気消沈な日々を過ごす羽目になった。
さて、祖母の遺品整理をしているうちに、偶然に叔母の日記を見つかり、悪いことだとは百も承知で、一体この30年近く叔母が患っている双極性障害の原因は一体なんぞやと好奇心に駆られて読んでみた。すると、内容の幼稚さに呆れるばかりで読んでいるこちらが頭が痛くなる内容ばかりであった。
祖母が要介護になって以来、私が家事全般をやっていことを裏打ちするかのように、日記には家事などやった形跡はほとんど無く、たまに洗濯や炊事、掃除の手伝いをした程度のものの記述で、呆れてものも言えなかった。何が介護家族だよ?これではガキの使いやないか?買い物で買ってきたものについても同様で、自身の趣味や趣向にあったものしか調達しておらず、祖父母が哀れで敵わなかった。その費用は祖父がなれぬ仕事で得た収入からほとんど出ているのだ。実に報われない愛情であったと、祖父の苦労を改めて思うた。
叔母は洗濯機や炊飯器の操作方法や使い方、冷蔵庫に防臭剤を入れることすら知らなかったのだ、これは当然といえば当然であるが、次に驚いたのは、暇を持て余したのか、近所の喫茶店、しかもこの店はチェーン店で、主にバイトが店を回しているところであるが、そこにバレンタインデーに手作りチョコレートを持って行った記述があった。しかし、単に顔見知り程度の客がそんなことをしたら、店員には遠慮がられるか気味悪がられるだけである。無論、叔母はそれには無頓着で、受け取って貰えたと嬉々として日記に書き込んでいた。ただ、それはその場をやり過ごしたいという店員の気持もあったろうにと、この叔母の幼稚さには呆れ返ってしまった。
自身の病気についても、担当の精神科医にべったり頼りっきりで自身の病を治す気など日記からは全く読み取れず、精神医学からみても、デタラメなことばかり書いてあった。担当医もいい加減匙を投げたのだろう、医者は適当に励ましたりべんちゃらしているだけのことを言っているだけなのに、えらく意思を褒めちぎっている記載もあった。馬鹿げた診察、こう言うしかなかった。医師も医師で、叔母に双極性障害の弊害や投薬の理解を深めることなどしていることもなく、日記と同時に見つかった診断書には、投薬治療のみで事は足りると書いてあった。薬の量といい、このような治療への無関心といい、明らかに処方の診療報酬目的の診断といってもいい内容であった。
他には、祖母を殴ったことへの言い訳をノートの3ページ以上にわたって書き、「お母さんの愛情が不足していたからこうなったのだ」と、締めくくっていた。また飼い猫の世話すらろくにしないと祖母が叔母を注意したことで傷ついたといって、躁転したのか、家を飛び出し高額な絵画や食器などを買い漁っていたりと、周囲には迷惑千万なエピソードばかり、日記には書き込まれていた。
よくもまあ、30年近く、こんな叔母に耐えてきたのかと、祖父母に同情したいところではあったが、なんでこうなる前に適切な医療処置を施さなかったのか不思議でならなかった。
何度も祖母に生前、私は生意気ながらも、「双極性障害は病識がないから、本人がいないところで、担当医に会って話をした方がええんとちがうか?」と意見したことがあったが、年老いた祖母は、これを「世間体があって出来なんだ」といって、「それでもこの年寄りに付き添うことはそう出来へんよお」と叔母を弁護していた。なんてことはない、世間体を気にして、この状況を誰にも打ち明けることはなく、叔母の双極性障害に関しては社会から完全に孤立し、祖母と叔母は共依存していたのだった。死者への悪口は冒涜と人は言うが、私はあえて言おう、祖父母は報われないことと知りながら叔母を甘やかした結果、本人は軽いリウマチですら克服する気力もない幼稚さを増長させたまま、無為な時間を過ごしてしまったのだ。人生をこんなことで無駄にするとはまったくもって馬鹿げている。
体を動かそうとせずに肥満体になった叔母は、自力では立ち上がれず、そこにリウマチが加わり、もはや、誰かの庇護がないと生きてはいけないのだ。この人の人生はどうしてこうなったのか、原因は明らかであった。困難から逃げた結果に過ぎない。自身の双極性障害に対する認識の甘さといい、誰かが救ってくれるという甘ったれた態度といい、それら自身の甘えや舐めた態度を弁解するような記述が、右のエピソードを交えて大学ノート15冊分びっしりと書かれていた。呆れてしまった。これが年長者の態度かと。愛すべきものなど到底見つからず、親子でなければ、誰もが無視する存在であろう。しかし市は精神障害を理由に障害者年金を叔母に支払い、ある程度の生活を保障しているのだ。全く意味がわからない。
もう後戻りはできない。60歳になった叔母に成長することなど期待できるはずもなく、残された叔母の人生は暗澹たるものになろう。
私はそれに付き合う気なんて更々ないのだが、私に相続された家に叔母がいるため面倒を見なくてはいけない、この受難から逃れるべく、今、私は遺産放棄も考えている。
もし8050問題で頭を悩ましている人がいれば、「即刻本人を適切な医療機関(大抵の場合は単科精神科病院)への受診を勧め、地域包括支援センターに相談すること、そして、必要があれば、本人の意思を無視してでも施設への入所の手続きを一方的に進めること」を私はお勧めする。それは家族の手に負えない問題であることが多いためである。 

  そして私もそれに取り組んでいる最中である。

祖母の死

祖母が死んだ。
五月のある日、仕事から家に帰ると、玄関すぐにある応接間にベットを広げている叔母はうなだれていた。
「お母さんの様子がおかしい、反応もないし…。でも電話の充電も切れているし、連絡のしようがなかった。居間に入って見てきてほしい。」
リウマチで患っている両膝をさすりながら、私にこう言う叔母に俄かに憤りを覚えた。いくら状況が不利であっても何かしら行動は起こせたはずだった。彼女の携帯に登録されている身内のいずれかに電話を掛けてさえいれば、対応はきっと早かったはずだった。というか寧ろ介護家族として苦労していると周囲に豪語するのであれば、尚更、足が悪かろうと這ってでも祖母の元へ駆けつけるべきではないかと、私は今にも起こりそうな感情を抑えるべく、自然、奥歯を噛み締めた。
たまたまその場に居合わせていた私の父も同感であったろう。表情が苦り切っていた。しかしこのことで議論をしていても埒があかない、祖母が倒れているために一刻の猶予も許されないのだ。直ぐさま、私と父は祖母のいる居間へと駆け込んだ。
「お母さん、お母さん」
父がベットと手すりの間に挟まって身動きが取れないでいる祖母に声を掛けたが、全く反応がなかった。私は祖母の両足にやや赤みががった紫の死斑が広がっているのを確認すると、諦めの方が希望よりも先に私の心を強く占めていくのを感じた。
「呼吸は?」
「この体勢ではわからん。動かした方がいいのか?」
脳梗塞動脈硬化の恐れがあるから、へんに動かすとまずいことになる」
父の動揺が私にも伝わるが、どこか私は冷静でいられたのはどうしたことかと今でも不思議だ。恐らく私はこうした事態に遭遇する事が多いためであろう。
交通事故、鉄道事故、引ったくり、痴漢、自殺未遂者、急病者や泥酔者の対応、どういうわけだが、こうした事態に遭遇し易く、行きがかり上、私が警察や消防に通報することになり、救援が来るまでの対応をすることになる。
この時もそういう役回りだった。
咄嗟に私が119番通報をする。
「祖母が倒れている。直ぐに救急車を。住所は…」
「直ぐに向かいます、老松出張所からご自宅まで近くなので2分とかからないと思いますが、できるのであれば横にして人工呼吸をしてください。」
勢いよくスーツの上着を脱いで、祖母の身体を処置のために動かそうとした時には、既に救急車のけたたましいサイレン音が聴こえ、対応の早さに感謝した。こうした事態に何度もめぐり合わせたところで、慣れることは恐らくないだろう。ただ、頭に浮かんだ事をやるしか方法はないのだ。
サイレンの音を聞いて、このまま何もしなくても後は救急隊がやるはずだと安堵して、父を見ると、憔悴しきっていたその表情も僅かに緩んだ。
「このまま待とう、すぐに来るだろ?」
「ああ」
私たち二人は微かな希望にすがって、救急隊を待つしかなかった。
助かる見込みは限りなくゼロに近いとは思ったが、それを口に出せば、忽ち希望は消え失せる気がして言えなかった。
ただ救急車がやって来ると分かっただけでもありがたかった。
電話をしてからものの1分とかからず、救急隊は戸口に現れた。
「病人はどちらですか?」
「居間の方です」
私が救急隊を案内しているのを、精神疾患の患者特有のジト目で叔母は眺めていたが、その目に正気は感じられなかった。まるで母親の異変など他人事のように思っているかのようにタバコをふかしていた。その姿を見て、私は奥歯を何度も噛み締めて怒りが沸くのを抑えたが、やはり難しく、祖母の処置にあたっている隊員たちが口を揃えて、「もう死斑が出ている」と言っていたのを潮に戸外に出た。
もう死んだのも同然だった。
学生時代、終電で、河原町から上新庄まで一人、帰る途中、茨木市駅で乗り換えの都合で準急の電車をホームで待っていた時、老人がまるで眠っているかのようにベンチに腰をかけているのが視線に入った。しかしどうも様子がおかしかった。足を露出している部分に、祖母に出ていたものとほぼ同じの紫の斑が出ていたのだった。その時、それが死斑とは知らず、物好きな私は、準急電車が来たら、声を掛けようと思い、その隣まで行くと、その拍子に老人は静かにホームの床に倒れこんだ。
やがて群がる人たちとこの老人を駅長室まで運んで救急隊が来るのを待った。
そのときも処置に当たっていた救急隊の一人が、「死斑が出ているし、救命処置もこれ以上は効果がない」と、警察に後を任せて帰ったことがあった。その日、私は茨木市駅から聴取のために終電で帰れず、歩いて帰ったと思う。病院死でないと、警察に執拗に事情を聞かれるのだとその時知った。
それと同じことが祖母に起きたのだと私はすぐにわかった。あと警察が検死と事情聴取を行い、医師を呼んで死亡検案書を作成をする、長丁場が予想された。
野次馬連中が挙って我が家の玄関先を見ていたところへ、私が一人出てきたものだから、彼らは皆、私に、「どうしたの?」と聞く。
「ああ、ばあさんが倒れた。多分もう…」
こう答える私に彼らもこれ以上の問いを投げかける事はなかったものの、目では、あの家の娘がキチガイだからこうなったのだと語っているところがあった。
一先ず軒先でタバコの一本吸っていると、救急隊が出てきて、私に向かって憔悴しきった様子で首を横に振る。
「もう私らには…。あとは警察が来ますので…。」「ええ、ありがとうございました」
こうして祖母は死んだ事が改めて身に染みた。
再び家に戻ると、応接間のベットの縁に腰かけて叔母は買い置きしていた菓子パンをむしゃむしゃ食べていた。なんて野郎だと思わず殴りかかりそうになるのをなんとかやり過ごして居間に戻ると、ベットに祖母は寝かされていた。死に目をだれにも看取られる事なく、しばらく放置されたのだと、窪んだその鼻をみて堪えきれなかった。父は、祖母の死を他人事のように振る舞う叔母のことを親不孝者と声を荒げた。
「お前、一緒に住んでてなんなんだ!」
「私だって一生懸命やったもん」
叔母の幼稚なこんな反論を聞いて、祖母が浮かばれないとやや落胆した気持で私は警察が来るのを待つことにした。涙も出なかった。

こうして、五年に及ぶ祖母の介護は終わった。そして、今、私は巡り合わせ上、叔母の生活補助を行うことになった。だが、それも長くは続くまい。というのも私はこの叔母に愛情を注げる力があった祖母ではないのだ。
深夜にコーヒーを叔母に催促されても平気でいられる余力も日中働きに出ている私には無いし、毎日糞尿で汚れた服を洗濯したり寝床を掃除したりする余裕もない。
それに今の女と新たに居を構えて生活しなくてはならないし、今の営業の仕事には私の性格上不適格ゆえに新たに職だって探さなくてはならない。つまり自身の人生がこのままでは危ういのである。なのに、病院も行政もこうした5080問題が生じている所帯には、ほとんどの場合、本人の意思とマンパワー不足を理由に対応しないと来ている。
率直に言えば、こうした現状の中で、長寿国日本を誇られるのは、迷惑極まりない話で、長生きすればするほど家族が割りを食うのが現実である。どこをどう見ても、無理に長生きなんてされた日には周囲は迷惑するだけなのだ。
もしも、地域社会がうまく連携が取れていれば、手を差し伸べられる機会も私や叔母にはあったろうが、しかし、それも叶わなかった。 全てが各個人任せで力が及ばない場合は自己責任と言われてしまうのである。
死を遠ざけて個別に分断され漂流させるだけさせておく、そこには何の生き甲斐もない。
今の日本の問題は社会の最小単位である家庭でもすでに起きている、私は祖母の介護でそれを理解した。しかし誰もそれをどうすることもできない。
最後に、モーパッサンの「女の一生」からの引用で恐縮だが、「この世は、思ったよりも良くもなく悪くもない」と、召使いのロザリが不運に振り回されている女主人に言った最後のセリフの真意が分かったような気がした。
失望に苛まれても、最愛の家族に裏切られても、どうすることもできない無力感に侵されても、結局は丸く収まる、そう思うことにしよう。

 

祖母が亡くなった後、代わって私が叔母の面倒をみることになった。
膨大な遺品整理をしながら、双極性障害の叔母の面倒をみるのは容易ではない。
病識がないというのがこの双極性障害の特徴で、殊の外、これが今の生活の足かせとなっている。何せ自分が病気であり異常であるという認識を持たないものだから、自身の奇怪な言動に疑問を持つことなく、日々を暮らす。
糞尿垂れ流しでも構わない、罵詈雑言を他人に浴びせても平気、車椅子で往来に出て通行する車や歩行者を妨害するのにも無頓着、一言で言えば、迷惑な存在である。
ここまで叔母がたわけだったとは知らなんだ。
また、彼女の言うことが気分の上下に伴いコロコロと絶えず変わる。
「在宅で私は自立に向けてリハビリをする」と言った翌日には、「在宅では自立は無理だ、やはり、施設に入ってからでないと…」一体、彼女の本心がどこにあるのか掴めない。現時点で確かなのは、観念放逸の頻繁さと、鬱と躁状態を短時間に交互に繰り返す混合状態の度合いから見て、双極性障害の方が、持病のリウマチに比べて遥かに重いことである。
どうすれば、この叔母を強制的に、本人の意思関係なく施設送りにできるのかを、私は常に考える。しかし、行政も医療も、本人の意思を楯に梃子でも動かあへん。こりゃあ、えらいことやぞと独りごちている有様。
そんな日常の中でも月日は経つもので、先月末に祖母の四十九日を済ませた。相続の件で父親と妥協点を見出すべく、叔母を蚊帳の外に出して、話し合った。そして家のことで一切の管理を任された私、結局のところ、自分の時間すら持てなくなってしまっている。
ここのところ、大阪に赴くことさえかなわず、台湾の烏來に住んでいる縁戚に義理も果たせず、果たして、私はこのクソみたいな環境から脱却できるのか?
32にして持ち家を持ったものの、その重みとやらを想像よりも重く感じている次第であります。
「コーヒー飲みたいんだ、私はさあ」
階下で叔母が叫ぶ声が聞こえておりますので、では、このへんで。

近未来のような

深夜の喫茶店。
若い女が一人、誰とも一緒にいないのに、化粧したり指先を弄ったりして絶えず口を動かしている。夢遊病患者のように彼女の視線は陶酔しているような感じで、周囲に配慮する余裕もなさそうにみえた。側から見て異様にしか見えない。
そしてよく様子を見てみると、やはり携帯を使って誰かと話しているのが分かり、何故か私はホッとした。まだ現実の世界に私はいるのだと安堵を覚えたのだ。
こんな人を見て平然としていられるのは、携帯が普及した結果であろうが、これがもし携帯というものがなかったら、或いは携帯というものを知らない人が見たら、極めて奇妙な光景だろう。


昔、酒場で知り合った奇妙な女を思い出す。
自身の苦労話や成功体験の話しかせず、隣でおとなしくそれを聴きながら、飲み干すことなど到底出来ないだろうウィスキーのロックを飲んでいた私が彼女に何か言おうとした時だった。
それまで私に視線を合わせて話していた彼女が途端に私から視線を逸らしたのだった。
私は、特段、教訓めいたことを言うつもりなど無く、相槌ぐらいものを言おうとしただけだったと思う。なのに?どうして?

インスタグラムでもツイッターでもいい、自身の広告に必死な人々がネットでは溢れかえっている。皆んな、ちやほやされたくて仕方がないのだろう、ただそれに水を差すような存在が現れるとものならば、こうした人々は言い知れぬ恐怖を感じるものらしい。
もしかすると、この文明社会は互いの不和への予感が充満した世界かも知れない。
直ぐに自己像をまるでスターのように披露出来る代わりに、人は絶えず他人の評価に恐れをなして、絶えず緊張を強いられる。
まるで自分をショーウィンドーに飾り付けるみたいに、どんどん化粧や身なり、言動、生活を派手にして、最後皮肉にも自分を見失う。
ーああ、理想なんてこんなに簡単に手に届くものなんだと思っていたら、いずれ実際のところは手の届かないほど遥か彼方にそれはあったと知ることになる、その時の驚きと落胆には誰も耐えられそうにない。今では精神分裂病の患者が抱える幻覚や妄想を普通の社会生活を営む人々だって馬鹿にできない。ー