終わりの始まり

駅前に立つ政治家がする演説ほど虚しいものはない。多くの人間が耳を傾けて立ち止まることなく通り過ぎていく。政治は所詮、金持ちの享楽、いわば、大衆人の戯れ、彼らがいう全ては、絵空事に過ぎず、グローバリズムが末期的症状を呈していてもお構いましに、声高に理想世界について熱弁を振るう。
「日本には世界の難民を救う義務があり、また人出不足のために外国人実習生を受け入れて…」
「日本の財政難は深刻だ」
「日本の構造こそ問題で、改革だ、改革だ」
もはや彼らの言論の行き着く先には亡国しかない。自らが閉塞感の原因となっているのにその現実を見ようとせず、「絆」「団結」のスローガンを掲げている。こうした明らかな偽善がまかり通り、テレビは芸人を出してゲラゲラ奇妙なほど楽しそうに笑いを誘っている。新聞は軽減税率の対象になったことで堂々と政府や財務省などの体制側を批判することができなくなり、権力の監視という本来の役割から離れ、もはや体制を擁護するだけに落ちぶれた。
唯一、期待をかけれそうだった音楽家、文学者の連中は、政治批判すれば、結局、中身の無い紋切り型の体制批判に終始するのみで、自己憐憫にどっぷり浸る白痴か企業の利害関係者だったということが暴露されて青恥をかくのだった。
イラク戦争の頃、日本人では、誰一人としてアメリカの侵略行為を糾弾することなかったし、未だにその国の軍事力にすがってのうのうと生きている。占領され凌辱され、精神性を骨抜きにされ、その挙句押し付けられた日本国憲法でさえ、後生大事に守ろうとする。
どれほど優秀な民族であろうと、ここまで無批判で従順であれば、滅びるしか道はない。絶望以外にこの国の行く先には無いようだ。
日本人は素晴らしい?そんなの嘘だ。日本人が素晴らしいのであれば、何故20年以上、実質賃金の下落が止めれないのだ?東北震災直後に真っ先に復興を進めるわけもなく、逆進性の高い消費増税や経済界がしきりに推し進める自由貿易協定の議論を始めるのか?同胞が賃金の下落に伴う貧困化に苦しんでいるのに何故食い詰めた外国人を労働力として受け入れようとするのか?
対米戦争開始時、「建国来、我が国は戦争に負けた事がない」と鼓舞されたものの、実際は微々たる装備で闘わざるを得なかった時代から何一つない変わっていない。技術大国、医療大国、経済大国といったメッキは既に剥がれ出している。いくらこの国の国民性を賞賛されたとて、やれることは、一斉に貧困に引きずり込まれていく中で責任を他人に転嫁して喘ぐことだけだ。
「誰のせいでこうなった?俺たちの知らぬ間に。」
10年後、20年後、誰もが、神社の跡地に建ったモスクを見て、そういう呟くに違いない。
日本の終わりの始まり…。まさに今、そうなろうとしている。おっと、世間に抱く心境を披瀝したいためにこの文章を書き出したわけではなかった。虚無感に打ちひしがれて斜に構えた事など言うつもりもないのに、なぜこんなことしか書けなくなったのだろう?きっと、私が世間一般の生き方に堪え切れずに、ズレていく感覚を持ち合わせた結果だろうけど。

さて、我が家の8050問題は、祖母の哀れな死を以って終わった。そして残った祖母の娘、つまり、私の叔母は、約32年間に亘って世間から隔離されてきた人間であるため、全く無能で、祖母の亡き後、生活全般の面倒は相変わらず私の役割として残った。それがいつ終わるか分からず、私は幾度も煩悶し、時には非人間的というべき行為に手を出そうとした。おかげで私は他人に対して無関心で冷酷な性格となってしまった。
深夜には必ず大声で「コーヒーのみたい」と寝床から大声で叫び、仕事から帰ってくると「お腹すいたからなんか作って」と何の躊躇もなく疲れた私に言う。
祖母が死ぬまで欠かさず献身的に世話をしてくれたおかげで、叔母は言えばすぐに望みが叶えられるものだと当たり前のように思っている節がある。
昨年、私がいないある夜、祖母は老体に鞭を打ち、叔母がその時欲しかったタバコとコーヒーをわざわざ彼女の寝床まで届けようとしたら、途中転んでしまい、私が帰ってくるまで、床に突っ伏していた。それを見ても叔母は他人事のように振る舞い、煙草をふかしていた。
「あんたにえらいところ見られて…」
祖母はバツの悪そうな顔をした。如何にも娘の身勝手さを見られて穴があったら入りたいそんな風だった。
「夜に叔母の相手はしたらかんよ。暗いし足元が危ないしさあ」
私がこのように警告してもなお、祖母は献身的な世話を彼女に対して欠かさなかった。
親子だからこれは仕方のないことだとは、独り身の私には納得しかねたものだった。
そんな調子で叔母は日常全般にわたる事が出来ず、祖母に頼りっぱなしであったから、亡くなっても態度を変えることはなく、勝手に寺の坊さんにうちの仏前でお経を読んで貰う約束をしたりする。そのため、私は供養日の前日には仏花を買う羽目になる。また訪問介護のヘルパーに全く生活には関係のない相談を延々持ちかけるものだから、家事は溜まる一方で、叔母が寝床にしている部屋は煙草の吸い殻や食いさしの菓子パン、スナック菓子のカス等が散乱し、クタクタに疲れた後でそれを掃除する羽目になる。一向に私の負担が減る気配はなかった。
リウマチで歩けないのは分かるし、精神疾患で判断能力が鈍っているのも分かる。しかし、これでは誰かの犠牲がー主に私だがーなければ、とても叔母が生活できないのは明白であった。
精神科の窓口にその惨状を訴えても、
「ご本人の意思がなければ、生活諸般に関することまでは手出しできない」
全く手がなかった。
そのため、もう一度精神科の入院制度、処方される薬の特徴等を改めて調べ尽くしてみた。どこかに殆どの精神科医が主張する「本人の意思が大事」という議論を崩し、こちらの意志を通せることができるものがあるはずだと私はいきり立った。
精神科の医療関係者が診断の際に用いるDSMマニュアル、製薬会社が薬に添付する文章、精神疾患看護マニュアル、名古屋市厚生労働省が公表している精神疾患に関する医療措置に関する書類を自分の仕事そっちのけで読み漁って行くと、あれよあれよと、今までどこに問題があったのかが見えてくる。
かつてそこから処方された精神薬には、甲状腺機能低下や歩行困難、心臓疾病、肥満などといった副作用があって、その影響下で肥満となりリウマチになったのではないかという疑問。それについては叔母は無頓着に従順に言われるがまま薬を服用していた。
精神疾患の病状や兆候への本人の理解が治療の際にはなければならないこと。心理教育といわれる治療が行われた形跡が叔母の診断書には見当たらなかった。
社会的孤立を防止するため、差別や偏見が多い精神疾患であってもそのことを家族間で共有することの重要性。介護を始める五年前まで私は叔母の診断名すら知らず、また、叔母の兄、つまり父にすらこの事を祖母は知らせていなかった。
精神疾患とは脳の神経伝達物質の過剰分泌に伴うものであるという仮説に立った薬物治療には何ら医学的根拠がないこと。脳波センサーでドーパミンやセルトニンを計測したうえで治療する精神科医は日本では少なく、薬の相性云々と言い訳して専ら多剤多量治療が一般的。脳に直接影響のある薬を大量に複数種類、何の説明もなく、処方するわけであるから、脳の機能低下はもちろん、手足の震え、よだれの出っぱなし、排泄機能の低下など、無意識に脳が制御していた身体的機能の衰えも患者の挙動に見られて当たり前であり、そのことに疑問に思わない家族もある。
精神病患者の同意が難しく自傷他害の恐れのない場合には医療保護入院という手があること。このことは医療関係者は負担の増加を恐れて、家族にあまり教えたがらない。
これらのことを踏まえ、私は叔母の精神科受診前に必ず窓口に電話して訴えてみたが、何の効果もない。あるとすれば、無作法な応対だけである。
「仰ることは分かりますが、本人の同意がなければ…」
医療保護入院を検討してくださいよ」
「そこまでする必要がないと先生は判断されて…」
「明らかに手足の震えだってあるし、ご存知かもしれませんが、着ている服や乗ってくる車椅子から尿の臭いだってするわけじゃないですか?それはつまり排泄機能が低下している可能性だってありますよね、とても私一人では面倒見きれません。」
「あなたも相当ご苦労されてるでしょうが、そうは言っても我々は専門家ですよ。況してや先生はそれのスペシャリストですからあなたに言われなくても分かってます…」
ガチャ!電話口の向こう側から聞こえるこの乾いた虚しい音にめげずに何度となく電話で訴えた。
しかし、一向に効果はなかった。
このまま半年が過ぎた。