絶望

世間は平成最後の〇〇と囃し立てております。
  いつの時代も御代が変わることになんらかの意味を求めるわけでありますが、現在の場合は恐らく最悪の平成時代からの脱却を仄めかすものでしょうか。私は平成という時代に多感な時期を迎えましたが、ちっとも社会全体が向上していく気配も文化的発達の機会もないように思え、寧ろ世相が思わしくないばかりに悪くなっているのではないかと日々思索を逡巡している次第であります。
  紋切り型の論評、政治的正当性、極端なリベラリズム、これら一切は全く我々に考える時間や余裕すら与えずに、決断を迫ってくるのです。 
  一度反論すれば、人でなし扱いを受け、疎外される。若かった私はこれでは黙るより他は無かったのです。
  最近、日本のみならず世界的に文化が相当劣化していると評する人をお見かけする機会があり、彼にその訳を聞いてみると、親切に回答を頂いて、なるほどと思われたので紹介致しましょう。
  彼曰く、エンタメなんてものは消費財の体以上の価値はなく、その場限りのものであり、永続的に続くであろう文化的価値が今の流行にはないことは明らか。それには世界的に見られる相対主義と個性尊重主義が跋扈したことがあると。
  つまり、共通の認識や価値基準がそれこそ溶解してしまったために、各人各々で別々に行動する他ならなくなったというのです。
  確かに思い当たる節がございます。
  大阪にいた頃、大阪維新の会に対して反論しようものなら、ほとんどの人からは「お前は何もわかっとらん、知事さんが言うように改革せんと大阪は地盤沈下してまうやろ?」と鋭く切り返されて全く議論すらならず困り果てた事が多々ありました。つまり互いに共通点や妥協点を見出す事なく、各々に自分の主義主張を通そうとして互いに反目しているだけなのでした。だからこそ、敵対している人々は有る事無い事、知りもしないのに罵るような態度で言ってのけるのです。
  結果、未だに大阪は地盤沈下したままで、あろうことか、過激な新自由主義に染まった改革路線を突っ走り、自ら首を絞めております。
  きっとのちの歴史家はこう書くでしょう。
「未熟な平成世代がメディアに翻弄されて愚かな選択をしてしまい、ここまで都市環境を悪化させたのだ。」
  一度根付いたイデオロギーや主義主張にたとえ間違いがあっても訂正することも詫びることもなく、そのまま突き進む為政者ばかりの日本で、果たしてどうやって希望を持ちえるのでしょうか?しかし、それでも生きていくしかないのです。
  希望がないと生きていけないとある初老のビジネスマンらしき男がテレビのインタビューで嘆いておりました。
  希望?そんなものがなくてもこれからも生きていかなくてはならない私からすれば、何と甘えた弁舌でありましょう。
  彼のような人々が希望欲しさに反論や批評を許さずに改革や規制緩和などを推し進めている、あるいはそれを考えなしに支持しているとしたら、どうでしょう、それは無責任以外ないでありませんか? 
  入管法の改正、水道の民営化法案、種子法廃止、消費増税など、これら今世間を騒がしているものも、じっくり議論もせず、単に利益を最大化したいという日本のみならず世界中の財界の後押しの下、行われているのです。
  現に国会で議論もすることもなく、内閣の諮問会議が決定したことに賛否の投票する場でしか、今の国会はないです。
  民主主義とは実に恐ろしいものです。一旦支持され浸透した考え方だけで何の訂正もなく突き進むのですから。それに追随するマスコミも恐らく金という弱みを体制側に握られて反論できなくなって機能不全の有様です。
  平成という時代で、「今だけ自分だけ金だけ」の実に利己的でニヒリスティクなイデオロギーがもたらした悪弊に苦しめられる国に日本は取って変わられたことはお分かりになるかと思います。そしてこれからもこれが続くかと思います。
  現にそうでしょ?お互いの主張を譲らず、そして、お互いの価値観の正当性を信じて止まずに、反目したり、あるいは喧嘩になるのを恐れお互いに肝心な事は黙り込んでいるのですから。
  一体、どこに未来があると思います?
  私は悲観的な人間なので、ないと思われてならず、相変わらず、古典文学に耽溺するわけであります。皮肉にもそれら古典にも今書いた事と似たような問題をテーマにしている訳でして、息抜きにもなりませんが。人間はいくら時代を経ても愚かしいことに変わらないものらしいです。