アメリカの民主主義

  この度、今後の日本の命運を左右する可能性が極めて高い参院選が近いこともあって、トクヴィル 著「アメリカのデモクラシー」を読み返す。
  初めて読んだときは、第二巻のほうが第一巻よりも面白かったという印象があったから、第二巻を中心に読み返したが、二十歳前後の私が当初読んだ印象とはまるで違った。読み落としがすごくあったこともそうだが、それ以上に、こちらの常識の蓄積がまだ二十歳前後では、この著作に追いついておらず、理解が中途半端であった。
  多数者の専制ー独裁も民主主義もあまり大差はない。なぜなら独裁を前に人は平等であり、また民主主義も人は平等であるため。また、多数派は少数派を無視する形で徐々に専政を行う構造を的確に指摘する。
 このような理解では、民主主義の危険性は語れず、私に足りなかったのは、民主主義の前提となる、自由と平等は相関関係にあり、そのバランスを欠くとたちまち人々は自由を放棄し、主権者に対し無力化し従属するという理解であった。
 平等化すると、何が起きるのか?ー平等にすれば、人々は孤立化し、他の人も自分と同じように考えたり感じたりすると思うようになり、周囲に無関心になる。そのため家庭や狭い人間関係の中に引きこもりがちとなる。また近代の時代は、目まぐるしく世相が動くために、身分が保証されておらず、境遇は変わりやすく、優れた知性や理論よりも、その応用と実践を重んじる。そのため、人々は無知のまま留まる。こうした無知が全体の意見に対して、自由ではなく人々を従属を招く。
  貴族制や封建制の時代は、一つの階層、一つの職業、一つの場所に留まり、そこでの主従関係のなかで生きることが、結果的に、国家全体とつながる手段であったし、また、そこでの義務を果たすことが、国家全体の安定に大きく寄与した。この環境下であればこそ各々違う境遇から多様な意見や考えが生み出されたことが、全体に自由をもたらした。
  しかし、民主主義の時代は、平等化された故に、個人は全体の前に無力化し、人間のあり方そのものに直接影響を受けた同一の考えや感情に支配され、思考は画一化しがちで、全体の意見の前に従属する傾向にある。
  これはすなわち、民主主義には全体主義を呼び起こす危険性があることを示唆しており、著書では、アメリカの話に留まらず、いかにしてナポレオンがフランス革命以後の混乱期に、ある種合法的に権力を掌握したかまで物語っている。
  今の日本に照らし合わせてみても、トクヴィル の指摘と提案は著作から150年以上経った今でも有効ではないかと私は思う。  多くの政治家や評論家、知識人、官僚などはきっとトクヴィル が言っていたことをわかっていないのではないかとさえ素人目には映るのだが、どうであろうか?たしかにそうであったからこそ、未だに民主主義を礼賛し、平等と自由を何のことはなしに享受し、怯懦な快楽と安楽を求めて、ただ騒いでいるのかもしれない。
  これはすごく悲観的な著作であるが、実に慧眼たるそれの評価は未だに絶えることはないだろうと、生意気ながら思う。
  個人的な話だけれど、こうした古典を読むたびに、人間って時代が変わっても変わることはないどころか、現代に近づけ近づくほど、劣化するものかもしれないと、一層悲観的になる。
  自国第一主義トランプ大統領の出現、行き過ぎたグローバリズムにNoを突きつけるフランスの黄色いベスト運動とイギリスのEU離脱、このようにかつての常識が目まぐるしく覆される状況下で、日本の多数派の心に根付いたグローバリズムと緊縮財政、構造改革を是とする強い信仰を果たして食い止めることがこの参院選で出来るのかと、トクヴィルに尋ねてみたら、彼はこう答えるだろう。
「安寧を願う民主国家の国民が、争いを避けるべく信仰を表立って攻撃することをあえてしないがため、主要な意見はすでに固定化されている。したがって、この信仰を揺れ動かすことは容易ではない。」
  もうこの国は衰退への道を歩みだしているようだ。